2012年06月26日

「普遍的な人生の目的」らしきもの。

アシ夢

いい加減普遍的な価値や目的についてひとつ位はコレだ!と言えないとダメな年齢だとの自覚はある。

人はどんな価値観を持ち日々生きているのだろう?
勿論、一般化出来るような問題ではないので自分自身で想像力を働かすしかない。

好き嫌いが中心なのか、損得なのか、それともやりがいなのか。

人間も動物の一種であることは明白な事実。
当然他の動物の行動論理ともリンクすると考えるのが自然。


そこで私の仮説は、「生産的な行為を通じてしか生きる目的を感じることは出来ない」 とする。
今日の記事は100%私の脳内から出てくる言葉を連ねてのものなので参考文献などに頼る内容にはならない。
従ってどこを切り取っても私的な見解となる。 

生産的な行為とは何も子孫を残すことだけではない。
仕事を通じて生産的行為に関わる場合もあれば人脈作りも一種の生産的行為。
何らかの分野において実力を上げて行くことも生産的行為だとしたい。

では、非生産的行為とは何か?
いつも例に出してしまうが、過去にあった小学校での児童無差別殺傷事件の犯人の行為は間違いなく非生産的行為。
あそこまで極端でなくても他者を傷付けたり自分自身を傷付けたりする行為(心身の両面)は非生産的行為だろう。

もうひとつの非生産的行為としては、手段と目的があいまいな場合。
わかり易いところでは、収入を増やすことを目的とした場合にギャンブルを手段として選択するのは愚かな行為であるし目的を果たすことはノーベル賞を獲る位困難なことである(お前が言うか!との声が聞こえそう)。
客観的に見て明らかに芸能活動に適していない者がその分野を目指すのも生産的活動とは呼び難い。
つまりバカな判断と生産的なこととは相容れない関係。

これもいつも例に出して恐縮だが、あのマルクスは 「人間は自らが実現不可能だと思える目的や目標は持たない」 との仮説を示した。
しかし多くの人間がマルクスの期待を裏切り愚かな行為やバカな選択を繰り返し続けている。


実は今日、26歳前後の知り合いの男と少し会話を重ねた。
彼は私の知人の女性の息子さんなのだが、先日私のところに来て 「離婚届けの見届け人欄に署名をお願いしたいんです」 と依頼してきた。
その後色々とやりとりがあり結局は私以外の人間に頼むこととなった。

そしてその話の直後、彼が今度は就職についての相談に来た。
どうやら自分で飲食店を経営したいらしく、その前に焼き鳥のチェーン店の責任者募集の面接に行こうと考えているとの内容だった。
私が飲食店を経営してきたことを知っているので相談に来たのだが、切々と私の持論を述べた。

彼に対して、「恐らくイメージしている何倍も仕事内容はキツイよ。それをイメージし覚悟出来ないなら簡単に飛び込むべきでない」 と伝えた。
彼はリンゴを英語読みする会社にいたプログラマーだったので結構キツイ仕事はしてきたはずだが飲食業界は大手であれ法令順守を徹底し難い業界なのできつすぎる位の表現で言葉を紡いだ。

で、今日である。
「おう、結局どうするんや?」 と問いかけると 「やっぱりキャリアを生かし外資系の会社に面接に行くことにしました」 との返答。
聞けば私のアドバイスも参考にしてくれたようだ。
離婚が決まったとはいえ、まだ小学校にも行っていない息子さんは小学校に上がるまで元の奥さんの下で生活をし、小学校に上がった時に親権者である彼が育てることになっているとの事情もある。

離婚はするわ子供は居るわ仕事はないわと大変な状況だが、ギャンブルは一切しないようなのでそれはずっと続けろと声を大にして言っておいた(またまた説得力なし)。

微力ではあったかもしれないが、私の辿ってきた人生を詳細に伝えたことで何か感じるものがあったのだろう。
これも小さくはあるが生産的行為のように思える。

偶然は重なるもので、今日は元妻からも連絡があり相談に乗った。
ブログ内でも触れたが、彼女は今精神的な疾患と戦う毎日だ。
生活が苦しいことを語っていたが、その点はちからになれないことはないので私からは別のことで思いを述べた。
彼女は自分のポテンシャルを超える頑張りを続けたためパンクしたのだが、私は 「確かに君に負担が一身にかかってしまい迷惑を掛けたのは事実だけど、別にどこかに縛りつけたり監禁したりして労働を強制したわけではないのだから君がどこかの時点で音をあげることは可能だったんではないかな」 と言葉を投げ掛けた。

それに対して彼女は 「確かに当時の私は使命感ともいえる思いに縛られていたのかもしれない」 と言った。

続けるように私は 「それと、君は理想の自分を常に思い浮かべていると思うけど人間なんてそううまく行くわけではないのであまり理想にとらわれ過ぎるとそのギャップに苦しむことになると思うよ」 と言葉を掛けた。

子供達とのわだかまりや実の母親とのわだかまりも彼女の中では消えていないので日々自責の念があり薬の処方なしでは日常を過ごせていないのだが、夢も希望も淡々とこなす日常の中からしか生まれてはこないはず。
薬に頼らず淡々と日常(買い物をしたり掃除をしたり仕事をしたり)を過ごせるようになればまた新たなスタートラインに立てると信じたい。

彼女は今生産的活動とは少し離れたところにいるので生きる実感ややりがいや人生の目的・目標を持ち難いのは理解出来る。
でも、カラオケで唄うのが一年前より上手くなったと思えるだけでも生産的行為なんだと思う。
何か小さなことでも良いから前を向いて進んで欲しい。

母の日に、次男からの連絡でこっちに帰って来たら4人でカラオケでも行こうやと言われたとの事実を知って以来、私のカラオケ技術はウナギ登り(笑)だ。
今、吉田拓郎の 『流星』 を唄わせたら町内一(ちっちや)かもしれないぜ。ワイルドだろ〜

少し話が脱線して来たが、生産的活動・行為・事項 とは幅広い解釈が可能だ。
ほんの些細なことでも生産的な毎日でありたい。


そして 生産的な行為こそが普遍的な人生の目的に成り得ると考える。




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2011年11月18日

=Group selection=

生物の進化に関する概念及び理論の一つである群選択(Group selection)説についてのWikpediaの内容の結論部分のみを抜粋してみる。

   ↓

種の保存論法はしばしば至近要因と究極要因の混同を伴う。至近要因とは動物の行動の動機となる心理/生理的メカニズムであり、究極要因とはその心理/生理的メカニズムを形作った進化上の原因のことである。

混同の典型例は交尾(性交)である。性交は性欲や子供を持ちたいという至近要因によって引き起こされる。その結果、繁殖(個体の存続)が起きる。性欲を持たない個体は繁殖せず、そのような性質は広まらない。これがなぜ性欲が存在するのかという究極要因である。「種の保存のため」は至近要因(性欲)とも究極要因(繁殖)とも関係がない。表面的に「種の保存のために繁殖しているかのように見える」だけである。



以上になるが、結論部分だけの抜粋なので他の事柄とも関連させて考えてみたいと思う。

群選択説とは、人間社会が何らかの規模でグループを作り、結果としてそのグループにとって最適な状況になっているという仮説と言えるが、
そこに個人の判断・意思はどう関われているのだろうか。

リチャード・ドーキンスは「人間は遺伝子の乗り物」だと結論付けたが、小浜逸郎に言わせると恋愛については人間はかなり主体的に関われるものだそうだ。

「なぜ人は恋をするのか?」 に対して、
小浜氏の見解は⇒それは身体が孤立しているという誰もが抱える事実を何とか乗り越えたいとする希求の意識に基づいている。
恋愛は、この希求の意識を心身の結合を伴う『物語』によって満たそうとする試みである。
そしてこの個別性を解消しようとする「希求の意識」こそが人間の本性をを成すものであり、人生に『意味』をもたらすための基本条件を成しているのである。


ここからは私の超個人的見解になる。 
例えば人間が作り出したコンピュータについて言えば、操作する人間の指示により作動するのであり、その指示・命令が常に最優先する。
しかし生身の体である自分自身の判断・行動については自分自身が指示・命令の主体となる。
コンピュータの場合、内部のプログラミングを超えた機能は果たさないし基本的には有用な働きを目的としている。

ところが人間の場合、自分自身の内部のプログラミングについてさえ精通しているのかどうか疑問。
本来、指示や命令は有用なものであるべきなのに自分が自分に出す指示により起きた行動の結果、とても有用とは言えない結末を迎える時がある。

群選択説やドーキンス博士や小浜氏のこともふまえて考えた場合、以前にこのブログでも取り上げた『メリットの法則』が人間の行動原理をかなり的確に捉えているように思える。

前にも述べたが、メリットの法則とは短時間で具体的メリットが得られることが予見される場合に人間はそのメリットを得るための行動を起こすというもの。

先に例に挙げた群選択説を説明する中での「至近要因」と「メリットの法則」がリンクするし、小浜氏の言う『物語』は{単純な本能ではない、意志の力による前向きな良い習慣}を身に付けることで綴られるものだろう。

一人の人間の生命の物語は現代では70年前後続く。
メリットと交換に何らかの選択をするのだが、そのメリットが個体にとってのものなのかグループにとってのメリットなのか。
もし結果としてグループのためのメリットに終始しているのであればドーキンスが語るように、遺伝子の戦略に嵌っていることになる。

自分自身の肉体をパソコンのハード部分に置き換え、そのパソコンの存在意義・存在目的を考えることで自分自身の行動目的のヒントにはならないか。

どちらにしても人間一人の存在は誰かにとって、または何かにとって有用であることは間違いない。
第三者の利己心により行動させられるのか、自分自身の利己心のために主体的に行動するのか、結果としてそのどちらを選択しているかが大きな問題となる。
そしてその選択は自由に主体性を持ってすることが可能なのだろうか。

操り人形として操られたまま一生を終えるのか、それとも自分の意志で踊るのか。
かつてスイープトウショウという牝馬がいて鞍上の池添騎手を散々手こずらせた。
最近ではやはり牝馬のアパパネがゲート手前でごねた素振りを見せる。馬でも強くて可愛い奴の我侭は通るのかな。
彼女らを見ていると変な話主体性を感じるなぁ。
角居調教師は次のように語る。
   ↓
「牝馬は強い調教をしなくても気持ちで走るんですよ」

何か人間にも当てはまる気がするなぁ。 女性も気持ちがのると頑張るもんなぁ。

時間に振り回され、人に振り回され、お金に振り回され、仕事に振り回され、そして精神世界にも振り回される。
そうではなく、いい意味で俺様気質でちまちませず堂々と生きてみようじゃないか。
済んだことは済んだこととして次に繋げれば良い。

高校野球で、我々はスポーツマンシップに則り正々堂々と戦うことを誓います。と宣誓するが、
本当の意味は、スポーツマンシップについては⇒戦う相手や審判やルールを尊重し敬意を払うこととの意味で、
正々堂々とは⇒攻めにも守りにも強くある。との意味。

日曜日はマイルチャンピオンシップ。
堀厩舎と言えば、休み明けでもきっちりと仕上げて来る厩舎。鞍上は厩舎とベストマッチの福永騎手。
馬券を買うファンの気持ちも尊重している印象。3歳の春に攻めの姿勢で古馬相手に堂々と戦った。
この秋も休み明けの毎日王冠から手を抜くことなく戦った。

リアルインパクトが馬券圏内に来ることが主体性を持った上で個体・個人でも進化出来るのだとの一つの証明になるだろう。
















posted by tetsukazu at 03:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 私的本質論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月04日

自身の幸福・他者の幸福。

「♪愛を学ぶために孤独があるなら 意味のないことなど起こりはしない」

以前から当ブログでの記事を構成するにあたりよく例に出す言葉だが[平原綾香 ジュピターより]
自分自身の幸福追求と他者に対する幸福への想いや願いはどう兼ね合いどうバランスを取り合うのだろう?

仮に私が今、恋愛をしているとして(例に出すにはオッサン過ぎるが)それは自分自身の幸福追求や成長願望が主目的なのか相手の将来の幸福を願い・祈ることが主目的なのかそのどちらなのだろう。

恐らく多くの女性に聞くならば「そんなこと頭で考えるより、感じることが大事なのよ」となるだろう。
個人的な意見になるが、男も女も脳を使い理性的に考えるのは同じだが女の場合はそれプラス子宮感覚というものがあり、情という要素がプラスされるはず。
つまり男という生き物は平面的であり女は立体的なのだ。
私が当ブログでマッチョ的に語るのは女が優秀な生き物であるとの前提で、それに対応するためには頭脳を徹底的に鍛えないとだめだと考えるからだ。

これも以前ブログに書いた話だが、親しくさせてもらっているカラオケ仲間の親子(母と娘)と同席した時にこんな質問をした。

「僕の持っている愛情の総量が100だとすれば妻に30、子供Aに20、子供Bに20.両親に20、兄弟に5、その他の人間に5位の割合になるのかな?」

すると間髪入れずにふたりが口を揃えて、「あんたアホちゃうの。そんなもん誰に対しても接しているその瞬間は100%に決まってるやん」

私の脳内は、「???… 結局、それぞれの数値を足したら1000%を超えるような話やから質問の答えになってない。抽象論・精神論・根性論」


私は、人間が内面を磨くと必然的に外見にも影響すると考えている。
私が女性に対して「素敵な方ですね。輝いてますね」と声を掛けた場合は同時に内面も褒めていることになる。

もちろん、基本的な容姿についてはどうしよもない部分はあるが、目の輝きや『他者から見ての感じの良さ』を醸し出せる人間はやはり内面を磨いているはずだ。
そして内面を引き立たせるためにも最低限は外見にも気を遣う必要がある。


さて、本題でもある 『恋愛の目的』 だが、直感としては「自分自身の満足のため」とは思うが、それだけでは独りよがりなので「相手の満足感も満たす」ことにも考えを及ばすべきだろう。
そしてそのふたつの要素が満たされたと一方的に自覚してこちら側の恋愛感情が形成される。

しかし恋愛は一方的なものでは成立しないため、相手側の内面にも同様の感情のプロセスがあり初めて双方向の恋愛が成立する…   と仮定してみる。

恋にもチャレンジ?

可愛い女性からのお土産

posted by tetsukazu at 14:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 私的本質論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月12日

自由の代償。

恥ずかしながらこのブログで私生活を赤裸々には語ってはいるが、
私なりに学ぶ姿勢は貫いていると自任している。

言うのもはばかるが、やはり離婚経験者としては女性に対する認識の再考になる。
実はこの数日間の間に、このブログに登場したことのある知人男性と知人女性に数点の疑問をぶつけた。
いつも繰り返すが上から目線的内容に嫌悪感を抱く女性の読み進みはお勧め出来ません(乙)




一人目は例により経済通の知人。
ふたりが会話するといつもマッチョ思想になり女性蔑視論がデフォ(ネット用語で普段通り)なのだが、
今回も私が、「男にとって女とは道端に咲く花一輪や身に着けるアクセサリーみたいなもんかな?」と問うと、
「まぁ〜マスコットみたいなもんやな」 との答え。

知人によれば、女なんてもんは肉体関係を結んだらこっちのペースで進めて何ら問題ないとの考え。
ただし前提があり、自分より能力の劣る女をターゲットにしないと元来、基本的ポテンシャルの高い女にいいようにされてしまうとのこと。

それでモノにした後は、「私のいたらないところは直すから捨てないで…byモテキ」などとも言わせない位上から目線で接すると。

で、もうひとりの知人である女性にも疑問をぶつけてみた。
「僕は最近思うけど、ひとりの女に自分の足りない部分を全て埋めてもらおうなんて所詮無理だと思う] と言ってみたら、
「そうね、私の場合は尊敬出来る人しかパートナーにしたくなかったので今の主人はその点では当てはまる」 と。
彼女は続けて、「孔子にせよ福沢諭吉にせよ結局は自分の生き方は自分で学び自分で考えるべきと言っているに過ぎないわよ」 と。
「今から考えると趣味が一致するパートナーを選べばよかったかもしれないけど、当時はそんなことは考えなかったわ」 

そこで、前出の男性の知人に匿名性を担保した上でそのことを伝えると、「言っとくけど孔子も福沢諭吉も論理的な哲学などなかった」 と断言。
ただ、ある意味そういった抽象的で曖昧なメッセージは当時の女性や子供には受け入れ易かったのでは?とのこと。

では、大人の男が大人の女性を上から目線で見るとの思想の根底には、大人に成りきれなかった男は俗に言う女子供以下ということなのか?
との質問には、「その通り」 との回答。 (知人的にはスカみたいな男)

せっかくなので知人の男性の専門分野(大学講師)である経済視点から現代を語って欲しいとお願いしてみた。
その見解は…
本来、自由と平等は矛盾する概念だ。「旧ソ連崩壊により資本主義の圧勝となった以上、強欲資本主義と言われようがどうであろうが是認するしかない」 と。
つまり、資本主義に足りないものは平等・公平の思想だと言ってみたところで 『自由』 を獲得した代償は支払って当然だとの見解。

大きく言えば自由の獲得とは、契約の自由・営業の自由の獲得であり、生産活動の自由や販売活動の自由や職業選択の自由や引越しの自由に繋がる話になる。と
確かに強欲資本主義とも言われる暴力的な生産調整(過剰生産の作物を廃棄してでも価格安定を図る)に憤っても仕方がない。
一般市民が資本主義を選択したのだから強欲であろうが何であろうが丸ごと受け入れるべきしかないのかもしれないと感じた。

基本的に資本主義社会の中では資本家からみれば一般労働者は生産活動におけるある種の道具であり、いくら土地や資本があっても労働力がなければ生産活動の成立はない。

資本家にとってみれば、家庭も労働力再生産の活動基地であり、学校教育も精神的再生産の基地であると言える。と
日本においても江戸時代までは、非経済的な側面が強かった…例えば道徳や人の繋がりなど。
しかし近年は経済的な側面抜きには社会は成立はせず、同い歳同士の結婚など望めなくなるだろうとの推測。男の方が女より10歳前後年上などは極自然な姿になるだろう。と

私もだまって聞いているだけでは芸がないので、
「結局男は集金マシーンと化して、お金を使うのは女の専売特許との認識で間違いないの?」 と質問してみた。
すると、「基本的にはその通りやな」
「だだし、稼ぎのある男には結婚するかしないかの選択権はある。稼ぎのある女も同じやけど女の場合は30代でも子供が欲しい気持ちに変わりないので積極的選択権とまでは言えない」


まぁ〜結論としては、大人の男の目的はたったひとつ 『一円でも多く稼ぐこと』 になるわけだ。
なんとシンプルな結論なのだろう。
海外でデモなどを起こしている若者達も、一刻も早く一円でも稼ぐ方向に行く方が建設的でありその稼ぎをせっせと女性の下へ届けてはどうか。


最後に、「何か女に関わると金がかかりそうやな」 と質問してみた。
すると、「家事労働等の負担が軽減され欲望が商品化された時代なら特定の女に関わらなくても人生を楽しむ手段はあると思うで」 とのちょっとせつない答えが返ってきた。


これで良いの? 資本主義とやら。

とにかく5歩後退して6歩進む私の生き方をこれからも貫くしかないのかもしれない(結構パワーはいるが…)


リアル女神はいるのか?


Ps ある女性から一年半前に比べてイイ男になったね!と声を掛けてもらえた。多分これで3ヶ月は頑張れる(まだまだ上から目線にはなれそうもないわ)

女神求む。



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2011年09月11日

施錠論。

国防や一般家庭の防犯を語る場合、全員が鍵をかけないのが平和状態なのか、それとも全員が鍵をかけるのが平和を保つ要因になるかが議論となる。

私は、当然の結論として全部の国・全部の家庭が鍵をかけるべきだと考える。
その前提の下に次なる議論の積み上げをして行けばよいだろう。
現在の世界のように一部の国だけに核兵器の保有が認められてその他の国には認めないといった枠組みは世界を平和に向かわせることが出来るのだろうか。

イランの指導者はアメリカ合衆国に対して、自国は核兵器を持ちながら他国の保有に文句をつける姿勢に反旗を翻し続けている。
現在の世界の軍事的パワーバランスに理屈をつけるとすれば、領土が広い国が覇権を握るということでしかない。
領土が広いと人口も多いし資源も豊富だしいざ戦火にまみれた時でも国土全滅は避けられる。
イギリスなどは植民地をどんどん手放したため今やアメリカと手を組むしかないのだが…
その点フランスは市民革命を起こした国だけに市民=(戦士)との概念が根強くあり本質的な民主主義の理念が残っているので世界では尊敬される地位を保つ。

日本はと言えば、今だに封建時代の名残りが残っており官僚達は民主主義を一種の道具として悪用している。
つまり、自民党に投票しようが民主党に投票しようが結果はさほど変わらない仕組みを作っている。
一部の党がアジェンダとして大きく掲げている公務員制度改革だが21世紀中に改革が大きく進むような気はしない。
ある意味官僚の個人防衛力は世界レベル。
選挙に行かない人を批判する場合も多いが、賢明な大人ほど投票行動に虚しさを感じ続けているのでは…


施錠論は、一般人が生活を続ける上でのひとつの指針にもなる。
何故ならば、他者の行なう基本行為は自分自身も行なっておかないと不利になることが多いからだ。
大半の人間が仕事をしているのならするべきだし、大半の人間が一定の貯蓄をしているのならやはり自分もするべきだ。

桃栗3年柿8年と言うけれど、真面目3年夢8年との言葉があってもよい位。

原発の放射能拡散情報をドイツのテレビ局が流してネットの世界では話題となっているが、これからも政府・マスコミ一体となり重要な情報が隠蔽されるのだろう。
これからの時代は今までに増して国民は高度なリテラシー(情報などの評価・識別能力)を持って生きて行くしかない。

考え事をしながら歩いていて何かにぶち当たった記憶がある者も多いだろう。
公道を歩く行為は実は慎重さや知性などがが要求されることでもある。
人生を歩いて行く過程ではなおさら気を抜くことが許されない。
頭を打ち付けて痛むのは自分の頭だ。 

国が防衛力を持つことが極当然のことならば個人が生活や身体の防衛手段を持つことも当然である。


話は脱線するが、提灯みたいな少し長めのホットパンツって何て呼ぶんやろ?
その格好にハイソックスなんかを身に着けていられた日には、電信柱にぶち当たる率激高やで目


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2011年09月01日

自由の扱い方。

世界陸上(俗称)も佳境に入ってきたが、棒高跳びの女王と呼ばれるイシンバエワが2大会連続でメダルを逃した光景などをを見るにつけ 『メンタル』 の重要性を知らされる。

このブログの2010年1月27日のエントリー記事にて、マズローが分析した欲求の段階を説明したが、
第一段階である生理的欲求の中に資本主義社会特有の 『フェイク(偽物)』 が混じっている気がしてならない。
マズローは第五段階を 『自己実現の」 欲求としたが、その実現のためには 「文化に対する依存性の低さ」 も必要な要素とした。

しかし文化は時代や国により常に変容するもの。
本来であれば 『食欲』 や 『睡眠欲・休息欲』 が優先されるはずの本能分野に、消費欲や似非快感を誘発する遊戯・遊興・嗜好が溶け込むのが欲望が無秩序・無制限に開放された 『資本主義社会』 である。

例えばの話が、犯罪者となり刑務所に入った受刑囚の食事と寝床が確保されて、犯罪者ではないが家計の収支に問題がある一般人が三食喰えない構造はおかしくないか?

刑務所にないのは勿論 『自由』、 シャバ(俗世間)で起こす殺人などの犯罪が仮に個人の自由意思の下に起きているとすれば、
自由を行使することにより自由のない刑務所に入るとの矛盾が生じてしまう。
人は一体、自由をどう扱いたいのだろうか?

稼いだ金を自由に使ってしまったが故に刑務所の食事環境より劣る生活になったり、年金生活者の食事環境が刑務所のレベルより劣る場合はどう説明がつくのか。

『自由』 の獲得は食欲を制限しても得るべきものなのだろうか?


一昨年出て行った元妻がよく言っていた台詞に 「我が子のためなら死ねる」 がある。
一見、美しく崇高な精神を感じる言葉だが、時によっては子供にとってマイナスになる場合もあるだろう。
子供を捨てて出て行った女性が、自責の念を持った末に命を落としたとしてそれが 「我が子との関係性の中で死ぬ決意をした」 のならばどこか整合性に欠けないか?

自由に人を愛するのも結構だし、人のために死ぬのも自由かもしれない。
ただ、愛する対象はひとりではないはず。2番目も3番目もいる。
例え我が子が1番であっても自分自身が2番で自分の親が3番で自分の兄弟が4番ということだってあるだろう。

愛する人のために誰かを傷つけて刑務所に入った場合、それはどんな自由を行使してどんな自由を犠牲にしたのだろうか。


マズローもここまで自由の範囲が広がることは予測不能だったであろう。
普通は、第一段階である生理的欲求と第二段階である安全の欲求に日々追われて、第三段階である所属と愛の欲求や第四段階の承認(尊重)の欲求まではなかなか辿りつけないもの。

しかし現代社会では 『個人の尊重』 が大きな要素となっていて、個人が持つべき自由(幻想なのだが)を最大限尊重するべきとの意見に異論は挟み難い。

食事に関して言えば、シャバにいる場合は 「メニューを選ぶ自由」 がある。
恋愛に関して言えば、特定空間以外のところでも相手を選ぶ自由がある。
仕事で言えば、選択したくない職業は避けられるし一定期間仕事から距離を置く自由もある。

つまり 「選択の自由」 が個人の持つ最大の自由権である。

ここに自分で稼いだ1000円があるとする。
その1000円を自由に使えと言われたらどうするだろう(自分で稼いだ金だから自由に使えて当たり前だが)。

住む家があることが前提なら、ある程度は自分自身の食事代となるだろう。
しかし自分自身の食事代より優先するほど大切に思えるもの(これも幻想に近い)があればそちらが先になるだろう。

女性の一流アスリートの中には、結婚よりも競技を続けることを優先させる考えの者もいるだろう。
それはそれで自由ではある。
しかしひとつの自由を選択したために他の自由が制限されるなら自由というのも意外に汎用性のないものかもしれない。

ほとんどの者が無自覚だとは思うが、実は 『自由』 とは選択したことに対する結果を受け入れる 『覚悟』 が本当の姿なのではないか。

『覚悟』 なき自由の行使は結果として 『後悔』 につながる気がする。

刑務所に入る覚悟なしに犯罪に手を染めるべきではないし、孤立する覚悟なしに組織から飛び出すべきでもないし、三食共喰わない覚悟なしに好きなことをするべきでない。

当然人を愛する場合にも覚悟が必要だし、本当に相手の幸せを祈るなら自分勝手な結論は出すべきでない。













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2011年08月17日

単純に言うと…

ブログで能書きを言い出して6年以上になるが

人間を 『超単純』 に表現すると

タンパク質に電気が流れることにより考えたり行動する存在

人間は所詮タンパク質の塊だし電気回路次第でどのようにもなる。

人間の身体の70〜80%は水分と言うが、実際は血液がそのほとんどを占める。

そして脳から微量な電気信号が流れ、行動したり思考したりする。

しかし電気は金属が媒介しないと流れないため血液は鉄分を含むタンパク質が成分。

つまり鉄分の水溶液。

そう考えると人間も多様性を持つ物質であることがわかる。

私の個人的な見解でしかないが、このような仕組みの人間の思考を変化させるためには

思考回路を組み替える必要がある。

そのためにやるべきことは思考を止めないこと。

忍耐力などは思考を抜きには全く身に付かないだろう。


結論から言えば、良質のタンパク質を摂取して現実に対応するための最適合な思考回路を形成することに尽きるのだ。

以上。 たまには短い記事で…


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2011年05月01日

永遠の矛盾。

昨日から自分のブログに入るのもブロックばかりだし訪問者等の情報を確認しようにも
アクセス解析のクリックがエラーになるしパソコン自体も超重いしで
更新のテンションもかなり落ちかけている。 下記に追記あり

天皇賞も結局、トゥザグローリーとエイシンフラッシュのワイド1点で撃沈。

こんな時は逆に哲学者になれるので想いを書き連ねてみる。

生物を単細胞生物・微生物にまで対象にすると、1個体で何万年も生きるケースもある。
追記ニシキ貝の貝殻化石に存在する超微小生命体のソマチットは約2000万年以上も生き続ける不死不滅の生命体である。
人間なんてたかだか100年位の寿命なのだから生物の最強位決定戦があるなら
下位争いがよいところかもしれない。
人類が種として地球上に存在するのも1億年はまず続かないはず。
たまたま太陽の恵みや海や大気の恵みを受け呼吸が出来ている存在と言える。
その割には、感謝するどころか自然と戦うことばかり考えているのも人間。
太陽が燃え尽きた場合、恐らく超低温状態になり地球自体がどこかの惑星の近くへ
飛んで行くのだろうが、そうでなくてもほとんどの人間があっと言う間に滅びるはず。
原子力潜水艦の乗り組み員は僅かに長く生きそうだが科学の最先端である原子力も
少しの時間稼ぎにしかならない。
今回の原発事故についても他の生物から見ればあきれた光景だろう。


さて、タイトルの永遠の矛盾とは?

ブログの一時閉鎖前の記事で、形而上学と弁証法の違いを解説したが
つまり水と氷は別物と考えるのが形而上学で水がやがて氷になるとの考え方が弁証法。
神は神、人間は人間とか善は善、悪は悪とか生は生、死は死との考え方が形而上学。
(間違っていたらすいません)
一方、弁証法の考え方だと物事は全てに繋がりがあり尚且つ矛盾を内包していると説く。

オギャーと生まれ落ちた瞬間から生命の火を燃やし続け成長を続ける存在であると共に
確実に 『死』 に向かう存在にもなる。
こんな理不尽で切ないことはない。まして100年程度しか生きないのだからあっと言う間。
やりたい事をやり遂げるには余りにも時間が短すぎる。
そして、有限の生が故にあせって事を成そうとし失敗を重ねるという矛盾。
生を目指すのに死が待っていたりという矛盾。

1日の終わりに睡眠に入ることを小さな死と表現する者もいる。
一生も1年も1カ月も1日も1時間も凝縮するとの意味で言えば同じとも考えられる。
アインシュタインは相対性をわかり易く表現すると、苦痛な時間は長く感じ
好きな異性と居る時間は短く感じるということ。と語った。
今日出来ないことが10年後に出来るということでもない。
今日出来ないことは10年後にも出来ないかのしれないのだ。
逆に(逆にの使い方が間違っているかも)今日出来たことは10年後にも出来るということ。

幸せを目指すのに不幸せが持ちうける場合も、生を目指すのに死が待っているのと同様。
人間は生まれながらにして永遠の矛盾を抱えてしまっているのだ。

私は、パートナーに出ていかれた瞬間、ある意味死んだ状態。
だからと言って生まれ変わったわけでもない。
生まれ変わるなどと言う表現は理性的に語るとただの言葉遊びでしかない。

私は最近鏡で自分の顔ばかり見ている。
こんなことは数十年なかった。
理由は自分でもわからないが、何となくだが男も女も他者の顔を見ることで
多くの感情を持つのではないかと思っているから。
確かに、お金が人との関係の中で重要なことは間違いない(特に女性に対する男性の甲斐性)。
しかし、何となくだが 『顔』 って大事だよな、と思うようになった。
歌手の広瀬香美は俳優の大沢たかおと婚姻関係にあったが、彼女は異性を選ぶ条件は
顔100%と公言している(ある意味素直な女性に思う)。

私がギャンブルにこだわるのもお金に対するこだわりがあるからだが、もっと 『顔』 に
こだわりを持ってもいいかなと思っている。
何も男性エステに通うという意味ではない。
実は筋トレをやり出したついでにこっそりと顔面のリンパマッサージも続けている。
その効果が出てきたのかもしれないが確実に見た目が5歳は若返ったように思える(自分で言うか)。

先日、知人にこんな質問をしてみた。
「どうしていじめっ子は他人にばっかり興味を持って干渉するんやろ?」
すると知人は 「それは自分のコンプレックスが強く、攻撃される前に先に攻撃するからや」 と。

私が必要以上にお金にこだわるのもお金に関するコンプレックスがありある意味お金に対して
『喧嘩』 を売っているのかもしれない。
そうなると顔へのこだわりも同じ結末になりそうだがそうではなくて
どちらに対しても、必要以上に意識し過ぎない代わりに必要な分量は意識することが重要なのでは?

結論ではないが、生と死が隣り合わせと同じで、自信とコンプレックスも紙一重。
生を意識し過ぎたり、死を意識し過ぎたりは良くない。エロスとタナトスの 『バランス』
自然体が良いと言ってしまえばそれまでだが、出会いと言っても狭い世界の話。
たまたま先に出会った人と仲良くなったとしても後に出会った人が魅力的な場合もある。
私はたまたまギャンブルという魅力的なものに出会うのが先だったが
山登りに先に出会っていればそちらにのめり込んだかもしれない。
運命のいたずらなのかもしれないが、人であれ物事であれ 『たまたま・偶然』 はある。
そして自分が選択したことに対して結果をどう受け止めるかも自分次第。

『たまたま』 生まれ 『偶然』 に何かに出会い、何かを選択して行く。
難しく考えて生きようが難しく考えないで生きようがそれは精神の自由。
しかし難しく考えようが考えまいが精神的な病を患うことがある。
それはやはり最初に述べた通り、人間が生まれながらにして矛盾を抱えた存在だから。
深く考えれば考えるほど矛盾の渦に巻き込まれ精神が分裂してしまう。
しかしそこで気をつけなければならないことは自分が被害意識を持ち過ぎないこと。
そして受動的態度をとり過ぎないこと。

前にも語ったことだが 「あんなひどい行為に走る奴は最低」 と述べる自分自身こそ
そんな最低な奴のことを思いやれてはいないのだ。ここにもやはり矛盾がある。

私達は死に向かっているとの意識も不幸に向かっているとの意識も持っているわけではないはず。
なのに過度な浪費、過度な飲酒、過度な労働、過度な嗜好を繰り返す。
何故なのか?

それはやはり無意識に 『死』 の瞬間に恐れを持つからだと思う。
だからこそ日々後悔したくないためやりたいことをやり切ろうとしてしまうのだろう。
その考えやその行為は間違いではないが正しくもない。
そう、生きるということは客観的に正しいとか間違っているとかの問題でなく
『究極の個人問題』 なのだ。
ただし 『主観』 を全面的によしとするなら殺人や略奪なども自由となってしまう。
ここにも 個人の問題と社会の問題の矛盾が生じる。殺人に遭った犠牲者の親族に
報復が許されないのも社会制度を維持するための制度でしかない。
しかし制度はとても重要であり制度から逃れることは出来ない。堀江氏も当然逃れられなかった。

私達は、そんな強固な社会制度の中で個人の自由をどう表現して行くべきなのか?

私は思う。 それは 『僅かな差』 をどう付けて行くのかを考えることだと。

よく考えて欲しい(自分に言い聞かせているのだが…)。

人間同士なんて見かけも能力も大した差があるわけでない。
いくら長生きしても100年。50年の人生の倍程度でしかない。
他者のことばかり気にしていたらあっと言う間に一生が終わる。
人生を終える瞬間が、人をいじめている最中だったり、浮気中だったり、パチンコ店の中だったり
万引き中だったりしたら嫌だろう。

ゆっくり生きても生き急いでも万人に死はやって来る。
いつ死ぬかわからないから日々好きなことを好きなだけやる者と
いつ死ぬかもわからないけどとり合えず生きていかないとならないのだからと一歩ずつ進む者。

よい歳をした私が語るのも何だが
たったひとつだけしか心掛けられない不器用な人間は、せめて 『自分』 を愛すること。
自分を愛するということは、自分の未来に向かって生きること、自分の幸せに向かって生きることだ。
もし少しだけ器用なら、たったひとりでよいから誰かを愛すること。
愛する気持ちはきっと生への希望や喜びにつながるだろうし幸せの具体的イメージも生まれるはず。

日々明るく元気にそして美しく生きて行くためには、自分をそして他者を愛する気持ちが最重要だ。



いつ死ぬかもわからないから好きなことをやるのでもなく
好きなことをやっているからいつ死んでもよいでもなく
愛してくれて心配してくれている人がひとりでもいることも忘れないで生きること。

そう、もうひとつの矛盾とは、人はひとりで生まれて来たわけではないということ。

たった1日でもよい。今日は生き生きと生きて美しく生きた顔をしていると鏡を見て思えたら。

それが明日につながり命を燃やすことにつながる。

万一世の中でひとりだけでも鏡に映ったそんな自分のことを美しい(心が中心)と思ってくれたら超ラッキー手(チョキ)

せっかく生まれてきたのだからスカッと爽やかコカコーラのように生きようわーい(嬉しい顔)









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2011年04月18日

自由と束縛。

昨日は間一髪助かった。
マイラーズCの馬券を買おうと思い最終チェックをしていると
狙い馬であるゴールスキーを管理する池江調教師のコメントに
「今回は急仕上げだ」 との内容のものが含まれていたことを知った。
情報は、多く入れすぎるとまとまりがなくなる場合があるため
関係者のコメントは鵜呑みにしないよう心掛けてはいるが
狙っていたはずのレース前のこのコメントは無視出来ず購入は断念。
結果はご存知の通り不可解な敗戦だった。
昨年から使い詰めできていたので目に見えない疲れがあったのだろうが
馬券に対する意識が高くなっている最近のファンの支持があったので
マイナス要素についての見方が甘かったようだ。
博打というものはこのように直前の閃き・予感なども重要な要素なので
今後も最後の最後まで集中して接して行きたい。

さて、今回のタイトルは 「自由と束縛」

オッサンが今更何をのたまってるんや!との突っ込みには既に慣れている。
変わらず我が道を歩きあーだこーだとのたまいたい⇒漢字少なすぎ(笑)

大学を卒業してせっかく就職したのに2〜3年で離職する者。
好きな人と結婚したのにパートナーに別れを告げる者。
例外もあるだろうが、それらの人達に共通するであろう一つの側面がある。
それは、物事をある一面からしか見ないことだ。
あらゆる事物・現象を球体と仮定するならば、どの側面から眺めるかで
見え方や印象が変わってくる。

離職する者や積極的に離婚を選択する者は 『自由』 と 『束縛』 を
全くの別物と考えているのだろうが、実はそうではない。
その両者は一体なものなのだ。
会社に勤めることや結婚することにより確かに束縛は生じる。
だが、同時に何らかの自由も生じるのだ。
理不尽な命令に従いながら日々仕事に従事するのはストレスの連続だ。
ただ、報酬を得ることにより生活上の自由を多く獲得することも出来る。
亭主の我侭に付き合い、毎日の献立を考えたり浮気の心配をするのは大変。
ただ、そんな束縛がある反面、経済的な安定や社会的・精神的安定も得る。

会社をやめたり家を飛び出したりした瞬間から束縛はなくなるかもしれないが
経済を基盤に成立していた自由もなくなってしまう。
それどころか国民年金や国民健康保険などの請求が始まり
公共機関 つまり別の社会からの違う意味の束縛が発生する。
誰も住まない離れ島で暮らせば自由と言えるかもしれないが
そんな自由を望みたいのだろうか?

『箱庭の(中の)自由』 との表現があるが、本当の自由なんて
ある程度の枠組みの中でしか得られないのかもしれない。

日本の歴史の中で、自由との表現が出てきたのはいつの頃からか知らないが
近代化する前は、勝手とか気ままとか思いのままとかの表現を使っていたように思う。
西洋が使用する場合の自由は、恐らく義務や責任を伴うとの意味合いがあるのでは?

共産主義でやっていけるほど人間は勤勉でなく
市場原理主義でやっていけるほど人間は有能でない。 と自虐的に語る有識者もいる。

勤勉で有能。勤勉で無能。怠慢だが有能。怠慢で無能。
勤勉で有能な者ばかりが存在するわけではない。
束縛から逃れようとする前に、少しだけ立ち止まり 「俺は(私は)勤勉?有能?」
と、しばし考えても手遅れではない。


人間が煩悩から逃れられないことは歴史が証明している。
煩悩とどう付き合って行くか? それを考え工夫することこそが 
『知恵・英知』 ではないのだろうか。


話は変わりますが、少し前にブログで書いた 『ヘヴンズ・ストーリー』 の再上映が
関西地区でも始まっています。 4月23日〜29日 は、大阪の十三のシアター7で
上映されます。 都合がつけば29日に行きたいと思います(もちろんひとり…泣)。
4時間を超える長編なので気合を入れて座ります。


4月19日追記
書き込み後に自由と束縛についてもう少し考えてみたところネット上に
なるほどという表現の論文があったので一行のみ引用をお許し願えれば幸いです。
     ↓
「自分を一番自由にしてくれる束縛、それを探して行けば良い」
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2011年03月23日

脱コード化の時代を生きる。

いきなり 『脱コード化』 をタイトルにしてしまい、どんな記事になるのか見通しがつかないが思いついた以上書き進めてみる。

脱コード化とは資本主義社会を 『脱領土化』 と表現したところから来ているらしいが、
現在では専ら 『歴史的に蓄積されたパターン』 から脱するとの意味を成すことになっている。

浅田彰氏の有名な著書である 『構造と力』 で、自由→社会や他者からの拘束から逃れること。 ともとれる表現をしたため、その後の知識人の間では、 『自由』 の本質論が議論されたし、スポーツ界においては中田英寿氏も 『自由』 について言及しているしその中田氏は思想を具現化するためなのか 『旅人』 を自認している。

浅田氏に対する批判のひとつには次のようなものがある。

「近代社会では、自己を反省し自分がどうあるべきか、そしてどのような行為をすればよいかを自己の内面に深く問いかけながら生きて行くことが可能になった。そのことこそが真に 『自由』 の獲得と言える」


人類の歴史は、カオス的状況→秩序ある文化(コード化された原始共同体・超コード化された古代専制国家)を経て、脱コード化された近代資本主義社会の誕生に繋がって来た。
神や王のような超越者が秩序の中心であった時代は過ぎ、今や中心なき時代であり、もし中心と呼べるものがあるなら、それは 『貨幣』 の存在が神や王を相対化したものとして機能していると言えないこともない。
しかし、貨幣は日常の様々な場面で 『カオス』 を吸収するが、同時に貨幣は常にその姿を変容させ社会や個人の秩序の破壊の一端を担う役割も果たしてしまう危うさも持ち合わせている。

そのような背景の中で組織や個人が生き抜くためには、常に 『脱コード化』 を繰り返す必要に迫られる。
ただ、問題は脱コード化の捉え方である。
会社40年説や50年説があるように、どんなに繁栄した組織でも劣化は進むし時代の要請とのズレが出て来る。
とは言え、起業を試みたからといっても上手く行くとは限らない。
留まるも地獄、進むも地獄の可能性もある。

そこで、先程例に出した自由の捉え方にヒントが隠されているように思う。

我々は既に、反省してそれを将来に生かすことが出来る 『自由』 を獲得しているのだから、その立場を最大限に活用して賢明に歩む必要があるのではないだろうか。

勿論それは組織においても言えること。
正に今回の震災で問題を起こした東電の歴史を見ても、反省点を生かせたとはお世辞にも言えないように思える。

ソシュールの言語論、そしてジャック・デリダに象徴されるポスト構造主義に見られる言葉を借りるまでもなく、
言語によってありのままの客観事象や意識・経験を完全に表すことは不可能である。
よって、我々が目の前に置かれた課題を克服し攻略するためには、言語以外の手段が必要となる。
つまり、 『行動』 であり 『結果』 である。
そこは、 『頑張った』 との主張や 『明日から努力する』 との決意とは遠い世界だ。
ソシュールが出した結論は、 「差異が意味を作る」 だ。
『差異』 とは何を意味するのか?

・間違っていないものが正しいもの。
・子供でないものが大人。
・貧してないのが福。
・本能だけの動物でないのが人間。
・見失わない状態が向き合う状態。
・反省する人間と反省しない人間。反省を生かす人間と反省を生かさない人間。

果たして自分自身は 『意味ある存在』 と言えるであろうか?
他者のことを 「あんなひどい奴はいない」 と言い切れるであろうか?

横道に逸れても逃げ込む場所がないのが近代という空間。
自由を得た代償とはいえ、変容し続け成長し続けることでしか中心なき時代は生き抜けないのだろう。
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2011年01月02日

見返りについて。

昨年に身内の不幸があったためおめでたいご挨拶は控えさせていただきます。

さて、昨年エントリーした記事でのコメントの中で、ずっと引っかかっている言葉があったので触れてみます。
『人間は怠け者』との記事での、けいけん豊富な毎日の けん♂ さんコメントなのですが、
「見返りに関係なく熱中することが=楽しむ=ということ」 との内容でした。

その後、ずっと考え続けて年末に息子が帰ってきて、ポツンと「ギャンブルを続けていることは感心しないなぁ」 と言われ、はたと気がついた。

考えてみれば、ギャンブルは見返りを求めるという意味では際立っているなと(賭け行為)。
息子がこのブログをみているかどうかは知らないが、何らかの形で知っているのだろう。

妻が去った後、多くの人から「女性の知り合いのひとり位いてもバチはあたらないよ」と言われたので、話が結構合う女性と少し親しくなった。
私は、その女性に対して決して気に入られようと必死になった訳でもなしし見返りも求めていなかった。
しかし、自然な形で少しの時間を共有する程度には発展した。
良い歳をして恋愛感情と呼ぶのも気が引けるし、私は一度女性に見切られているため現在の距離感でも十分楽しい。

そこで、『見返り』をキーワードにギャンブルに当てはめて見ると、やはり私とギャンブルとはどう考えても不自然な関係と言える。
先の女性との関係で言えば、会っている時は確かに楽しいが、かといって四六時中一緒にいたら良い関係でなくなる気もする。
それは先方も同じだろうし、先方にお金持ちの男性が現れた途端、私が視界から消えることだって大いにあり得る
しかし、現在楽しいのであれば先のことなど必要以上に考える必要もないのもまた事実。
ところが、ギャンブルというものは関わるたびに楽しいとは限らない。
とんでもなく落ち込む時、自暴自棄になる時、自己嫌悪になる時、その他マイナス要素も満載である。

では、どうしてここまでのめり込むことになったのだろうか?
私は、このブログを通じ『ギャンブルは性欲の代償行為』と語ってきた。
そうであるならば、性欲を満たすこととギャンブルの共通性がないとおかしい。
もしくは、性欲を満たしているのにギャンブルを続けるのもおかしい。

『性欲』 と 『見返り』 の関係は?
心理学などの分野では、『メリットの法則』との用語があり、人間の行動はメリットが動機になっているらしい。
トイレに入る時に、照明のスイッチを入れるのは、明るくなるとのメリットがあるかであり、
出る時に消し忘れるのは、電気代の節約といった要素以外にメリットがないかららしい。
メリットが生まれるまでの期待時間も1分以内でないと大きなモチベーションとはならないらしい。

では、ギャンブルで負けた時でも『メリット』は発生しているのだろうか?
論理的に考えてそんなことはないはず。恐らくギャンブルに関わる瞬間に脳内から快感物質が分泌されて
その時点でほとんどのメリットは完結しているように思える。
勝った時には確かにまた別の物質が出ているのだろうが、意外と冷静だったりする場合もあるので事前の快感が主であろう。

私が日頃主張(根拠は自分自身??)する、ギャンブルは性欲の代償行為だとすると、男女間の恋愛感情も、事前のドキドキ感こそが快感の主なのか?

話が逸れないうちに本題に戻ると、『見返り』を求める求めないのレベルではなく、けん♂さんが言うように見返りに『関係なく』熱中することが楽しいということならば、
仮に結果として見返りがあったとしても、結果自体は楽しさの主ではないのかもしれない。

メリットを求めて行動するとの人間の本能と、見返りに関係ないべきである楽しさは矛盾してしまう。
寒いから服を着る→メリット。腹が減るから食する→メリット。
ただ寒さをしのいでも楽しいとは言えない場合もあるし、ただ満腹になったからと言っても楽しさと一致しない場合もあるだろう。
同様に、ただ寂しさを紛らわすためだけに風俗通いをしても虚しさが残る。

何とか結論に向かいたいが上手くまとめられない。
誰かにアドバイスをしていただければ助かります(願)。

やはりけん♂さんが仰るように『熱中出来るもの』を見つけたものが幸せなのだろうか?
それは人に対してでも良いし他の物事に対してでも。

私は今まで何に熱中して何に見返りを求めてきたのだろう。そしてこれからも。

やっぱりギャンブルは何かの代償行為でしかないし、お金の力だけで愛を買うのも違う気がするなぁ〜

誰か教えてくれぇ〜。



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2010年09月28日

他者との共鳴関係へ

誰しも一度位は、尊敬する人は誰ですか?と聞かれたことがあるだろう。
しかし即答出来る人もそう多くはいないはず。
かなりの昔なら二宮金次郎などが挙げられたかもしれないがシステム化された現代においては効率・合理性などが優先され、一個人の持つ相対的影響力は減少するばかりでカリスマは生まれにくくなっている。

私自身もその意味では個人崇拝した時期もなくきたし誰かが頑張っているから俺も頑張ろうといった感情がモチベーションの中心になったことはなかった。
だがここにきて身の回りにあまりにも様々な出来事が起きてしまい、さすがの私も一度立ち止まる必要を感じ出した。

そこで頭に浮かんだのが、運命を受け入れることと他者との共鳴関係である。

ネットなどでもそれをキーワードにして検索してみたが、宮台真司氏が『日本の難点』という著書で他者との関係性について多角的に捉えていて興味深かった。
彼が語るには、人間相互の信頼関係に基づいて運営されていた生活世界が、市場経済や行政福祉といった『金銭や制度を介在とするシステム』に変わったと。
そしてそれは人間関係の煩わしさ(負債感)を回避したいという我々の希望に基づいて起こってきた変化だと。

宮台氏は、人間関係について『関係の履歴から事件(シーン)の羅列へ』とも語る。
恋人関係においても相手と過ごした日々の積み重ねではなく、その場限りの刺激・興奮を生む事件こそが、目の前の恋人を好きと感じる証拠になってしまっていると。
そうした場合、『その人でなければいけないという唯一性』は弱まるとの分析。

また、宮台氏は他者を感化(共鳴)させるという意味で『感染』という表現をとる。

他者の自由や尊厳を侵害せずポジティブな価値観を持っている人物が、どの程度の高い人間的魅力や求心力を持っているかにより他者への共鳴度が違ってくるとの分析。
親や教師と子供や生徒との関係も当然良い意味での説得力を伴う共鳴関係であるべきだ。

私が運命を受け入れることをまず重要なことだと強く感じているのは間違った方向性ではないだろう。
しかし真に努力する人間に運が味方するとの考え方も見当違いではないはず。
仮に私が大女優の夫として、濃厚なラブシーンがある作品に出る妻を冷静な態度で送り出せるだろうか。
妻はその作品に出演するにあたり努力を惜しまず力を出し尽くすはず。
表層的に物事を捉えるのではなく本質を見抜く洞察力を磨くためには、年齢・性別・国籍を超えて真に努力を重ねる他者に対して尊敬の念を持つことや意見を素直に聞く姿勢を保つことが重要なのは間違いない。
そしてそれを真に意識し実行することで本当の意味での個人としての成長に繋がるはずだ。




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2010年05月28日

反省と後悔の違い。

久々に風邪を引いてしまいおとなしく過ごす毎日だ。

こんな時は、日常生活の反省や後悔と向き合うことになる。

たまに会話をする機会がある某社長と先日も話をしたが、なるほどと思えることがあった。

「反省と後悔は似ているようで違うんだよ」

えっ? どういうことですか? と聞き返した。

「綿密な準備の下、確信や自信を持って物事に取り組んだ上で結論を出したことで出る結果については例え裏目に出ても、それは後悔ではなく反省につなげて前向きでいられる」

「しかし、思ってもいないことを一瞬の感情でしてしまった時はそれは後悔となり、後ろ向きの思考となるんだよ」

私はそれを聞いて 「なるほど、思い当たることだらけです」 と答えた。

とは言え、取り組む事柄により他動的・受動的なものもあり、その場合は己の努力や精神力だけではどうしようもない部分があるが、それでも関われる最大限のところまで力を出し惜しみするべきでないのだろう。

どちらにしてもいくら良い話を聞いてもそれを生かせないと意味がないしアドバイスした人の立場もない。
結果は自分自身で出し自分自身で検証する覚悟だ。


さて、ダービーが迫ってきた。
後悔しない取り組み方は?
まず馬券についてはこのレースについてどれだけ理解して出走馬やその背景にどれだけ精通しているかを自問自答すれば結論がでる。

私が行ったことは東京2400m芝への適性や臨戦過程などに注目した程度で、各馬の横の比較までには至っていない。
この程度の状況で貴重なお金を賭ける価値があるかどうかを考えて後悔しないで済む道を選べば良いのだろう。

血統を見ると、エイシンフラッシュ、リルダヴァル、ルーラーシップあたりに目が行く。
特にエイシンフラッシュの血統は遠くシロッコやシーザスターズなどにも通じるように受け取れるし、ミスプロの血はプラスに働くように思える。

ルーラーシップは説明はいらない位母父トニービンに目が行く。
リルダヴァルも母系のミスプロ、Nダンサーの血が騒ぎそうである。

臨戦過程はやはり皐月賞からの直行組が有利に思えるが、ペルーサについては悪くない過程。
ダノンシャンティはさすがに買いづらい。

枠は4〜6枠が有利だろう。有力馬が入っているだけに好レースが期待される。
目につくのはルーラーシップの3番枠。2番枠のレーヴドリアンが出遅れるだけにすっと好位につければ上位に顔を出すだろう。

現時点で一頭挙げるならエイシンフラッシュかなぁ。
それにしてもヒルノダムール食い過ぎなん?
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2010年04月23日

デジタル思考について。

『ブール代数』 との用語はかなり前に世に出たものなので、それなりの大人は知っている言葉だろうが、デジタル時代(IT化)に乗り遅れている私には完全に理解するのが困難な基礎理論だ。
現在のパソコン等に始まる情報化時代の基礎を成すものとしても知られている。

1+1=2 と小学校で教えられたのは日本人なら共通する経験だろうが、『ブール代数』 の考え方を当てはめた場合は、1+1=1 との考え方になるとも言われる。
『ブール代数』 は別名 『論理代数』 と言われ、論理を数学的に扱うもので、真を「1」 偽を「0」として処理する方法をとる。
ただし、ある命題を処理する時には、 「AND(論理積)」 「OR(論理和)」 「NOT(論理否定)」 という3つの演算を基本とした 『論理演算』 を行う。
説明がどんどんわかり難くなりそうなので簡単にまとめてみる。

先に述べた 1+1=2 との教えは、最初の1と次の1が寸分も狂わずに同じ質量を持つものであるとの約束事のもとに成立しており、更にはリンゴ1個とリンゴ1個を足すと2個になるというような問題の場合は大きなリンゴ1個と小さなリンゴ1個を足した場合でも2個との答えが正解であり、厳密に言えば大きなリンゴ1個を数字の1の置き換えるとする概念からすれば小さなリンゴ1個を足したとしても2との答えにはならないはずなのにそれも2が正解であるとの約束事になってしまう。
数学は説明のつき易い学問のはずなのにその辺は曖昧のまま知識として植え付けられてしまう。
論理的思考を養うはずの学問なのに、細かいところの素朴なツッコミはスルーされる。

さて、1+1=1 の方の説明になるが、『ブール代数』 の理論からすると、左手に持つ(土・砂糖・塩など混ざり合うものなら何でも良い)砂粒状の物と右手に持つ砂粒状の物を両手で合わせ持った時、それは 砂粒1+砂粒1=2 ではなく、砂粒+砂粒=砂粒となる。 つまり 1+1=1 だ。
とにかく解は常に 1か0になる。
ただし、先に述べたように3つの演算を駆使して解に向かうので、入力する要素は複合的となる。

ANDを「かつ(且つ)」 ORを「または」 NOTを「〜でない」 とすればわかり易い。

1→真 0→偽 であるから、 砂糖(真) 且つ 塩(真) = 1  砂糖(真) 且つ 塩(偽) = 0   砂糖(偽) 且つ 塩(真) = 0  砂糖(偽) 且つ 塩(偽) = 0 となる。

同様に、 砂糖(真) または 塩(真) = 1  砂糖(真) または 塩(偽) = 1   砂糖(偽) または 塩(真) = 1  砂糖(偽) または 塩(偽) = 0 となる。

更に、 砂糖(真) でない = 0  砂糖(偽) でない = 1 となる。 塩も同様。


私は低レベルに理屈っぽいので話をすぐに低俗に一般化してしまうが、例えば好き同士の男女が常に一緒に行動した時、1+1 の値がどうなるのか興味が湧く。
人間(真) + 人間(真) の場合は 真人間 且つ 真人間 なので = も真人間。
しかし片方が 偽人間の場合はややこしくなる。
2人の間の合意事項が、どちらも真人間が前提の場合、片方が偽人間だと発覚した時は 0 になる可能性がある。
合意事項が、どちらかが真人間であれば良いとのことならば、少なくとも一方が真人間であれば 1 となる。

最後に、〜でない を当てはめるには単独の個人を例に出せば済む。
真人間 でない 場合は 0 偽人間でない場合は 1 である。

このようにデジタル的思考で物事を考えると(あくまで私の私見だが) 価値観は2通りで済む。
(真) か (偽) その2つだけである。

リンゴがリンゴとして存在するだけで1個と数えてもらえるのは、便宜上、手間を省略するための手段でしかなく、価値や結果を求める時には大した意味は成さない。
リンゴの価値をアナログ的思考で判断して良い時代はまだ1人の人格は人格として個人の個性が輝いていた。
しかし世の中がデジタル化する中、社会の中で個人が存在するにあたり、 1 or 0 として記号化され出しているとも言える。

つまり 使える奴→1 使えない奴→0 のように。
儲ける奴→1 損する奴→0 でもよい。

良いも悪いも世の中は進化している。
韓国とEUの間で自由貿易協定が調印されようとしている。
世界レベルで ON⇔OFF  1⇔0  への発想転換が必要になっている。
中途半端では生き残れない時代が既に来てしまったようだ。

この話の続きはまたの機会に…
 

  
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2010年03月17日

人間の成長の話。

前記事の続きです。

前記事で、シナプス形成との言葉を使いましたが、
自分でもよく理解出来ていないためネット等で調べました。

人間は成人になった時点で、1個の神経細胞が約1000個とつながりを持つらしい。
この神経細胞同士の結びつき(神経回路)を指す時に主にシナプスとの言葉が使われる。

人間の誕生は、一個の受精卵から始まるが、受精後の約40週間でおおよそ2兆個まで細胞分裂を繰り返す。
そして成人になる頃には人体は約60兆個の細胞で構成されることとなる。

それらの細胞の多くは身長や体重の増加等と関係し、皮膚の細胞などを始め再生を繰り返す。
ただ、生まれ落ちてから死ぬまでの間にまったく増えることない細胞集団がある。

その集団とは [大脳の神経細胞] である。

大脳の神経細胞は約140億個〜160億個で、壊れた場合に再生はせず、ある年齢からは消滅し続けることとなる。

ひとりの人間が生まれて以後、個々の体内では脳の機能の発揮の基となるシナプス形成が続いていくのだが、その形成スピードは驚くべき速さなのだ。

仮に20歳を100%とするならば、3歳まででおおよそ60%、6歳まででおおよそ80%、10歳で既に95%が完成する。 (脳の重さは新生児400g、3歳で1100G、6歳で1260g、成人1400g)

現実的には20歳で100%にはならずに20歳以降も脳内の回路は増加していくとは思うが、ぞっとする数字だ。

3歳までは外から内に対しての刺激や情報を集めて個体としてどう対応するかをほぼ無意識に行ってしまっているようだ。

3歳以降は内から外へ自己主張との形で外部の反応をうかがうようになる。これを「試し期」「反抗期」と表現される。
この時期に相変わらず外から内へと価値観の押し付けが続いた場合、歪んだ人格形成となる可能性がある。

そして10歳〜12歳位で、自分で自分を反省的に意識出来るようになるらしい。
これを大人の始まりと呼んでも良いだろう。
親や周囲の大人から見れば、10〜12歳の子供を大人扱いすることに抵抗はあるだろうが、脳内は既に95%の完成度なのだ。

では、現在ここに存在する自分は、10歳の頃からの思考回路が5%程度しか成長していないのだろうか?

その答えを出すには胸に手を当て日々の生活パターンを振り返るしかないのだが、自信を持って反論も出来ない。

10歳の頃に、晩御飯も忘れ外で遊んでいた少年は40歳になっても街で遊んでいてもおかしくないし、
10歳の頃から既に真面目に勉強していた者は40歳になっても努力を続けていそうな気もする。

ただ、人間は長所と短所があり、また一見短所と思える部分も考え方次第で長所につながるだろうし、一見長所と思える部分も使いどころによっては裏目になるかもしれない。

やはり前回までの記事でも書いたように、子供の頃から持ち続けている長所があればそれを更に伸ばすことが重要だろう。

人間の成長とは、一歩一歩進むものだと考えていたが思考回路に関しては10歳でほぼ完成形となっていたのか。

ヒトの祖先はNeu5Gc(Nグリコリルノイラミン酸)という物質を完全に体内から消去することで知能を発達させたようだ。
しかしこの物質は白血球の表面にあって免疫機能に重要な働きをするものであったため、
ヒトはチンパンジーなどの他の類人猿に比べて免疫力が弱くなり、マラリアやエイズに感染し易くなったとのこと。

つまり高次の機能を持つ脳を獲得した代償が大きかったわけであり、人間はやはり脳を最大限活用するしか生き残れない。

人間の成長には教育が不可欠なのだが、適時・適切・的確な関わり方でなかった場合、不幸なケースも生まれる。
かといって日本国においてほぼ最高レベルの教育環境であったと思われる某与党の党首を見た時、果たしてどう感じるか。

そうなると受身の教育だけでは人間の成長は望めないように思える。
自分自身で頭を打ち、つまづき、起き上がり成長していく側面は否定出来ない。
15歳で社会へ出た者が落ちこぼれで22歳で大学を出た者が成功者などと断言出来るはずもない。

10歳の頃、人をいじめたり理不尽な暴力を振るったりしてなかったか?人のものをとったりしてなかったか?
うそをついたりしてなかったか?宿題をせずに学校に行ってなかったか?賭け事の真似事をしてなかったか?

もし思いあたるのなら、マイナスの部分の思考回路は引退してもらおう。
そうでなく、人に優しくしていたか?向上心を持って何かに取り組んでいたか?親身になってくれる人の言うことを聞いていたか?お小遣いは少しでも貯金していたか?

プラスの部分があったなら休止していた部分をメンテナンスして復活させよう。早くしないと消滅するよ。

現時点で99.9%思考回路が完成していたとしても0.1%は未完成だと信じて新たな一面を生み出すこともあきらめないでおこう。

明日から生まれ変わると言ったり明日からやり始めると言って実際にやった人間をあまり見かけない。
やろうと思ったのなら思った瞬間から始めるのが正しい姿勢だと思う。

クモは、ほぼ本能によりクモの巣を作る。
しかし人間は意識的に社会を作って来た。個人も [意識的に何かを成し遂げるべき存在] ではないか…

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2010年03月14日

意思の力で遺伝子を克服出来るか。

意思(意志)が強いとか弱いとかとよく言われるが、意思とはどこから発生するものだろう?

押井監督などが傾倒していると思われる ジャック・ラカンによると
人は成長と共に自らの不完全性を認め、不完全であるところの自己を積極的に確立させようとする。
しかし自我を確立させるために他者を鏡にしてそこに自分の真の姿を見ようとするが、
必ずしも「真の自分」と出会えるわけではない。

人は常に「出会い損ねている」存在であり根源的な空虚感が生まれると語っている。

ラカンはまた、人間の「欲望」とは突き詰めると、どこか特定の「外部」から訪れる「価値」を、
それが使命であるこのように「誤認」してしまうことを指してのものだと言った。
これを整理して「個人の要望(欲望)とは他者の欲望でしかない」と仮定した。

この「他者」についてラカンは、差異化競争の世間でもあり、神や運命であったり、国家や思想や英雄とか民族性や民族そのものであったりもし、
その超越的な他者性に誤認=幻想の正体を見た時、
人は己の「欲望の矛先」にそれまで輝いていた根拠や甲斐もなくなり、
「欲するもの」そのものがひたすら空回りしていることに気付く。この「空回り」が「切なさ」の正体だと。


意思を何らかの欲望に向かって発揮するものと仮定すると上記の分析ではないが、矛先を誤る可能性がある。

意思と遺伝子の関係についてはDNAの95%が未解明と言われる現時点で結論は出せない。

遺伝子情報の伝達手段や脳の機能や記憶装置は人間の肉体を用いているのだが仮にそれが「大容量」だとしても、
無限のパターンに対してプログラムすることやシナプスの形成をすることは不可能だ。

意思が生まれる場合、それは過去の経験に対する一定の行動パターンと言えるが、そのために想定される過去が無限のパターンになるため
己の内部の遺伝子情報や脳の記憶容量やシナプス形成能力を駆使しても
100%的確な意思形成のための仕事(肉体内)を望むのは不可能だ。

よく言われることに「魂」による命令が肉体に対して行われれるとの話がある。
しかしもし「魂」が非科学的なものなら、熱力学第一法則と相反する。
物理学の世界では「無」から「有」は生まれるのは有り得ないとなる。

意思をあえて「有」の世界ととらえると遺伝子情報という「ざる」の目をすり抜ける砂粒のようなものであり、遺伝子よりさらに緻密な高次元エネルギーとなる。

リチャードドーキンス博士によれば、生命活動はDNA内に記憶される遺伝子情報に基づくが、
意思については人間が認識可能な記録媒体であるもの(脳・紙・電波・磁気・電子)を通じての
memo情報にも基づくものであると。
人はもちろん遺伝子情報に従って生きるのだが、何らかの非常事態の際は、揺らぎが生じるため独自の意思が必要となるとの分析。

生物の進化の過程は環境の変化に対応出来たかどうかが大きな要素となる。
人間とて例外でなく、生まれた後の行動次第で死に方に天と地ほどの違いが出ても不思議でない。
常に最善の手を考え行動するべきである。

個人の、ある意思決定が例え遺伝子の影響を受けてのものだとしても、遺伝しない獲得形質もあるはず。

本田宗一郎はこう言った

「進歩は反省の厳しさに正比例する」

意思の持つちからを甘く見る必要はなくその可能性に賭けるだけの価値はあると考える。
振り返った時、後悔に繋がる選択はしたくない。



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2010年02月01日

感情の正体とは?

前記事で紹介したドラマ 「その街のこども」 を土曜日の再放送で改めて観た上で録画し
その後も何回か観ました。

ドラマの内容も勿論のこと阿部芙蓉美さんの主題歌が現在も頭から離れません。
過去にあった出来事を忘れることが出来ない時に無理に忘れるのでなく
過去と向き合うための工夫が必要だと教えてくれました。
主演の二人が夜を徹して神戸の街を思い出を語りながら歩き最後は一年後にまたと言って別れる場面も
ぐっとくるものがありました。
一期一会と言いますが、二人の短い時間には時間では語れない中身が詰まっていました。

先日ある人と話していると、こんなことを言っていました。
「昨日で人生を終えた人にとっては、今日と言う一日が面白くなかったなどと言っている人の一日がどんなに羨ましことか」 そう偶然観たテレビで誰かが語っていたそうだ。

面白くなかったとの感情は人により違う。
感情の根本にある要素を探ると、それは何かの事象に対して何かを感じる人が持つ固定観念と言われる。

如何なる現象にも本来意味はなく単に「何かが起きている」だけで見た人感じた人が意味を与えて
初めて意味が生じるもの。その意味も見た人感じた人のフィルターを通じて主観で意味を与えるだけ。

感情が主観から生じるものであるならば「自分の感情を他人のせいには出来ない」
怒りの矛先を自分以外の何かにぶつけるのは筋が違う。
この事実に気付こうとしない者同士が互いの矛盾を互いの鏡として見せ合う行為が「争い」

自分が誰かを怒らせたとしても、その人が勝手に自分の価値観で怒りを覚えているのだから
本来、それについて後悔や罪悪感や自己嫌悪や自責の念を感じる必要はない。
しかしもし相手が勝手に怒っているからと開き直った結果、思いもよらぬ展開となった時には、
自分自身が自分の感情に対して自己責任を取れていない場合は怒らせた後の対応に後悔する可能性が生じる。

感情に限らず人生で体験する全ては体験者がどんな固定観念を持っているかを映し出す鏡だ。
極悪非道な犯罪者に対して「あんな思いやりのない人間がいるなんて信じられない」などと責める人ほど
その犯罪者を思いやれていないとの自己矛盾が生じる。

世の中の仕組みは、「自分が与えたものを自分が受け取る」 ことになっている。
もし誰かに不自由を負わせようとすると自分自身が不自由になるだけ。

自分自身が持つ感情の中で、改善したい感情があるならばそれがどのような固定観念に基づくものであるかを考え
その固定観念を変えることでその感情に基づく繰り返したくない体験を避けることも可能になる。

*一部はネット上の記事引用


私の持つ感情で改善したいところは、終わったことをくよくよすることと起こっていないことに心配するところです。

私に関わってしまった人は不幸に違いないと思えば思うほどそれは実は自分が不幸の当事者と思っている裏返しかも。

こんな事を私から言われたら傷つくだろうなぁと考えている自分が一番それを言うことで傷つくと考えているのだろう。

そう考えると人に優しくするのも自分が良い人間でいたいからなのかもしれない。

与えたものを受け取るのが世の中の仕組みであるなら悲しみを与えた者は自分自身に返ってくるのが道理。
お金を粗末にする者はお金で苦労をするのは当然。
時間を無駄にする者はいつか時間に追われることになる。
愛情を粗末にする者はいつか愛されなくなる。

世の中をなめるものはいつか世の中からシッペ返しをくらう。

一見、それぞれに与えられた一生の時間が違ったり生まれながらにしてハンデを負うのは理不尽だ。
しかし一日一日をどう考えどう過ごすかで例え短い人生でも満足行く人生を送れるかもしれない。

生きることは遊ぶことだと捉える者もいるだろう。
生きることは遊ぶことや悩むことでなく、働くこと学ぶことと捉える者もいるだろう。

私の場合は生きることは何ものからも自由でいることだと捉えている。
それなのにいつの間にか自由でなくなっている。
何故か? 
それは前記事でも少し触れたことでもある、「文化」に翻弄されているから。
特に消費社会の中で個人の欲望を煽る文化に翻弄されている。 

男像、女像、子供像、大人像、夫像、妻像、親像、社会人像 等々のこうあるべきとのすり込み文化。
これらについては文化(企業文化含む)に洗脳されている人達がマジョリティなだけに私などは常に異端児となる。
それでもそれらの人との接点はあるのが普通なので何とかやり過ごすが自意識の過剰さには違和感を持つ。

自由でいるためには何が必要で何が必要でないかを改めて考える必要がありそうだ。

常識からの自由、時間からの自由、お金からの自由、人からの自由、社会からの自由。
自由になっても孤独になり寂しくなっては何をしてるかわからない。
本当の自由とは、常識を知り、時間を知り、お金を知り、人を知り、社会を知ることからしか得られないのかも。

不自由を知ることで自由が理解出来る。
寂しさを知ることで楽しさが理解出来る。

感情の正体が固定観念であるならば、100あると思い込んでいる大事なことを5つ位に整理出来るはず。
そして文化からも自由になれるだろう。











posted by tetsukazu at 03:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 私的本質論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月27日

私利私欲の話A 努力の量とは‥

追記あり
前回の記事で私利私欲の話をしたが、その後に気が付くことがあった。
よく考えると、私利と私欲は別物なのではないかと。

今、問題となっている政治家の件も私欲があり過ぎるために起きていることだ。
私欲を増大させた時、それが私利につながるとは限らない。
私のサイトらしくギャンブルに当てはめると、ギャンブルに触れていたいとの欲を満たそうとする時、確かに、実行することで一旦は満足を得られる。
しかしそれが利につながるかというと必ずしもそうではない。
アブラハム・マズローは、自己実現の欲求を5段階目の欲求と分析した。
第1段階→生理的欲求。第2段階→安全の欲求。第3段階→所属と愛の欲求。第4段階→承認(尊重)の欲求。

ネット記事を参考にすると、第1段階を除くその他の段階についてはこれらの欲求が満たされない時、人は不安や緊張を感じるとしている。
第5段階の自己実現の欲求に動機付けられた欲求は「成長欲求」と呼ぶ。
人間は満たされない欲求があると、それを充足しようとするが、その上で、低次の欲求が充足されるとより高次の欲求へと段階的に移行する。
各段階は一方通行ではなく、双方向に行き来するが、第5段階のみ一度充足してもより強く充足させようと志向し行動するとされる。 とのこと。

また、マズローは、欠乏欲求と成長欲求を質的に異なるものと考え、欠乏欲求が大部分満たされると自己実現の欲求が現れると分析した。

自己実現を果たした人の特徴として、客観的で正確な判断・自己受容と他者受容・純粋で自然な自発性・創造性の発揮・民主的性格・文化に対する依存性の低さ(文化の超越)
二元性の超越(利己的かつ利他的、理性的かつ本能的)などを挙げている。
自己実現を果たした人は少なく、彼が晩年に発表した、更に上の段階である自己超越の段階まで行った人間は全人口の2%程度とのこと。

以上が引用による内容だが、私も以前にこの理論についてはリーダーシップ研修の時に学んだが、
それ以降は特に意識することなく進んで来た。因みにリーダーの大きな条件は「権威」となる。

引用の内容の中にある2%との数字は妙に納得してしまう。自己実現レベルで言えば、
直近の5大官庁(財務省・外務省・経産省・総務省・警察庁)の採用出身大学の構成は
東大79、京大12、早稲田9、慶応7、一橋6、阪大3、中央大3、東京外大2、筑波大1、上智1、同志社1 だ。
プロ野球、プロサッカー、プロ歌手、プロ棋士などの道へ進めるのも志望者のうち極僅か。

これらのことを考える時、スタートラインのことは重要な要素になり得る。
つまり、経済レベルがどの程度の家庭に生まれたか?
肉体や精神が健全な状態で生まれたか?
性の違いに応じた社会における要求性や優位性を素質として持ち合わせているかどうか。

私個人の考えになるが、もし人によりスタート時のレベルに違いがあるならまずその差を埋めるためだけに最低限、人の何倍もの努力が必要になるが
努力だけでは埋められないものも当然あるはず。
そこでその差を埋めることに対し、なぜ俺だけが私だけがこんなに苦労しなければならないのかなどと早期に挫折してしまってはその差は開くばかりである。

先に述べた官庁への就職者にしてもスタートラインに差はあったはずだが誰一人として途中で諦めなかったと思う。

私欲の果てに私利を得るのは本当に難しい。
この前にも、ギャンブルは性的欲求の代償行為の可能性があるとしたが、そうだと第1段階にとどまる。
そうであるなら一気に第5段階に行くわけもない。
物事に早道がないのであれば本当の意味での自己実現達成のためには段階を踏む必要がある。
第2段階における安全とは経済的安定や心身の健康維持も含まれる。
荒んだ生活からは自己実現など望めないし、第4段階における、他者からの尊敬などを経ての自己尊重感、自己信頼感、自立性、技術や能力の習得などへはとても到達しない。

お釈迦さんが世の人のために修行を積むことも世の人のためになりたいとの欲望が成せるとするなら
仏教で言う空の発想にも疑問符が付く。
インド仏教での伝承では男女が互いに「あなたにとって一番大事なものは?」と問うと
どちらの答えも「自分自身である」だった。との話があるらしい。
他者の利も大事ではあるが、自分自身を大切にする土俵が単独であることが前提で他の土俵に他者の利があるのではないだろうか。

幸福感についてもそうだ。同じことをしても幸福と感じる者もいるしそうでない者もいる。
目指すところが幸福感になってしまうと具体性に欠けてしまう。
幸福感とはその時々の結果であり、結果を追い求めて得られるわけではない。
人に褒められたくて勉強や仕事をしているわけでなくても結果として褒められる時があるとの認識も必要。
結果が大事と謳ったサイトの否定になりかねないが、結果は結果であり、とにかくその時々にやり遂げるべきことを精一杯こなすことが重要なのだ。

今からでも遅くない。
親鸞はこう言ったそうだ。
「悪人ほど成仏する」と。
悪人が死ぬ前に反省した場合は善人な者が気付かなかったような悟りを開くという意味らしい。
善人であれ悪人であれ反省することを躊躇することはない。
反省した後に改めて生きて行くには限られた時間しかなく一日でも早いに越したことはない。

変わることを恐れるな!


最後に。
阪神・淡路大震災の追悼日である1月17日の23時〜24時15分に放送されたNHK総合の
阪神・淡路大震災15年 特集ドラマ「その街のこども」久々の秀作だった。
神戸を舞台に森山未來と佐藤江梨子主演のロードムービー調の物語で震災で心の傷を負った若者を見事に演じていた。
脚本は映画「ジョゼと虎と魚たち」の渡辺あやさん。

冒頭の居酒屋シーンは台本がないのではと思わせる位自然な演技で見入ってしまった。
再放送の声がかなり上がっているようなのでもし実現したら是非多くの人に見て欲しいドラマだ。

1月29日17時55分追記

キターーーーーー やったーーーーーー

「その街のこども」へのたくさんのご意見、ご感想ありがとうございます。皆さんから寄せられた声の力で、さっそく再放送が決定いたしました。


「その街のこども」 再放送
1月30日(土)13:30〜 BS2
「あなたのアンコールサタデー」


 この作品は森山未來さん、佐藤江梨子さん、津田寛治さん、脚本の渡辺あやさん、音楽の大友良英さん、阿部芙蓉美さん、そして何より神戸の皆さんと神戸という街が、この世に誕生させた新たな“いのち”だと感じています。私たちスタッフにとっても“こども”のような存在です。
前作の「未来は今」は放送後に神戸大学で学生たちと一緒に上映会を行いました。それをきっかけに震災について若者たちが考え、発信していこうというムーブメントが始まりました。ドラマの中に登場した「シンサイミライノハナ」も、その一つです。
「その街のこども」も、みなさんの力をお借りしながら、大切に育てていきたい、かけがえのない作品です。震災15年という年に生まれた「その街のこども」がこれから、大きく成長して、神戸の街と人々に恩返しできるようになれば、そう願っています。ありがとうございました。

以上の文が公式ホームページ上の番組プロデューサーのコメントです。
阿部さんの歌も聞き逃せませんよ。




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2009年12月08日

自己責任論と感情と理性と

身の上話ばかりでまさに独り言の世界だが
ブログを通じて親交を深めた方との会話の中で
自己責任論の話になり考えさせられた。

資本主義体制の中での社会は何のためにあるのか?
それは生産の道具として社会が必要だから。
ロビンソンクルーソーの世界には社会は必要がない。

資本主義では人間も資本の人格的存在であり
広く言えば人間関係だ。

道具をキーワードにすれば法律も会社も道具と言える。
会社は金儲けのためのシステムの中に存在し
仲良しクラブでは存続出来ない。
資本主義は一部の資本家がどんどん豊かになる
システムであり労働者は搾取される存在である。
資本家にとっては労働者が生きようが死のうが
関係ないが、一定の数は必要なので生かさず殺さずを心掛ける。

貧乏人の悩みのベクトルは一方向であり少しでも豊かになりたいことが主。
資産家に生まれた太宰治が死を選んだのはお金の悩みではない。

過去に戦争に巻き込まれた日本も単純に言えば
欧米列強国が資本の過剰蓄積となり海外投資を推し進めた影響をもろに受けたため。

社会は組織であり個人にとっては組織との調和が不可欠である。
しかし現実は個人と組織に調和などとれない。
そこには対立軸があるのみ。
個人として社会と融合するための数少ない手段は
ひとりよがりでなく相手(他者)の気持ちになって考えることだ。

考えるという行為をスルーした個人は感情で物事を決めるし好き嫌いが判断要素でもある。

では、考えて前に進めるような利口な人間のとるべき思想、態度、行動とは?

利口な人間が愚かな人間の相手を必要以上に続けると
第三者からみれば利口な人間も馬鹿に見えてしまうもの。

愚かな者が大勢いる輪の中に入ってしまっている者は
どんなに強がっても第三者の目には馬鹿の仲間にしか映らない。

一般論で言えば馬鹿はその場の感情で行動して後で後悔する。
もっとひどいと後悔もせず全部他者の責任と主張する。

所詮、馬鹿と利口は相容れないのかもしれないが
社会の中では自分の意思とは別に同席するしかない局面もある。
例えば公立の小学校や中学校であったり趣味の場であったり。

私がギャンブル場にいる姿は他者が見れば利口には見えないはずだ。
かといって図書館にいれば利口に見えるかと言えばそうでもない。

多くの人間は仕事をするか学校へ通っている。
仕事場や学校で過ごす以外の時間についてはそれこそ
幼稚園児位から自己の選択によりそれぞれが過ごす。
自分自身を振り返っても自由時間を過ごす時に
素直に親や先生のアドバイス通りにした覚えがない。

そうであるならば人生における結果はかなりの部分が自己責任である。

饅頭が目の前に3つあって、適量は1つで3つ食べるとお腹をこわすとする。
10歳の子供がその場面で3つを食べた時、それは誰の責任なのか?

3つ食べたらお腹をこわすことを教育出来なかった親に責任があるの?
それとも10歳にもなれば自制心のひとつも備わっているはずだから
本人の責任なの?

もっと食べたいとの感情に打ち克つためには理性の力が必要になる。
社会や親や子供自身がそれぞれの意見を持ったとしても
そこにある現実はお腹をこわした個人の存在だけだ。

まず現実・事実が先に立ち、分析は必要だが個々人の未来の判断を事前に知る術はない。

神様を作り出したのは人間だと仮にする。
神様をも金儲けの道具に使う勢力がいるとすれば
純粋な個人や真っ直ぐな個人や優しさや思いやりをたっぷり兼ね備えた個人は
金儲けを企む勢力の良いお得意さんになる。

悪徳商人に騙された庶民に自己責任論を当てはめて良いかどうかだが
社会が様々な価値観を持った人間の集合体だとすれば
自己責任論を強く意識していないと社会から振り落とされる。
いざとなれば誰も助けてくれないしいつのまにか日本の国の失業保険は
最長150日程度になってしまっている。
国家が失業する個人を自己責任と扱っている証拠。

最近目にした毎日新聞の記事を見ると19世紀後半にマルクス主義の台頭を危惧した
ドイツの宰相ビスマルクが社会保障政策を充実させたとなっているが
私が知る限りではビスマルクは資本主義を守るために庶民にアメを与えたそうだ。

このように社会は、国家や組織や集団や個人がそれぞれの都合の良いように振舞うわけであり
その渦中に存在する個々人は余程自己確立が出来ていないとスポイルされてしまう。

繰り返すが、仕事場や学校で過ごす以外の時間の使い方とは多岐に渡る。
買い物をとっても10円でも安い物を買う姿勢の者とそうでない者とは
3年程度の単位では手元に残るお金の違いが出て当然。
お金のかかる趣味に興味を持つのかそうでないものに興味を持つかでも変わるし
お金や手間のかかる友人や恋人と付き合う場合とそうでない場合も大きな違いが出る。

そう考えると人生に退屈な瞬間などないはず。
日々選択の連続なのだから。
もし退屈と言う者がいたとすればそれはやっかいなことを他者に押し付けていたり
本来するべき日常の煩わしいことから逃げているだけなのではないか。

資本主義=社会=人間=お金 
やりきれないがそれが現実であり生きるということ。
あらゆる意味で余裕がない人間に与えられた余暇は限りなく少ないと考えられる人間が
利口な人間だ。

posted by tetsukazu at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 私的本質論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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