時計が刻む物理的時間の積み重ねが過去時間で、それは分割も可能。
一方、純粋持続時間とは心的状況も含めて個人により感じる時間が違うしそのキーワードのひとつは「直感」にあると。
しかし同じフランスの哲学者のバシュラールは、時間の本質はその切断としての「瞬間」と語った。
この考えはキュルケ(キルケ)ゴールの時間は永遠の断続としての瞬間であると捉えたことと脈略があり、絶望は死に至る病と言ったことへの解決策にも繋がる。
つまり精神病を患う者にとっては時間を「瞬間」と捉えられないために過去や現在や未来や妄想や幻想や反省や後悔や懺悔や全能感に引っ張られてしまうからだ。
「こんなはずではなかった」と語る人間にとっては、決定されていたはずのシナリオ通り行かないことに疑問があるのだろうけど、同じようでもネイティブアメリカンのある部族の考え方は、既に書かれた本のうち既に読まれたページが過去であり、未だ開いていないページについては出会うものだとの考え方。
前エントリーでは今回の切りつけ犯の今後について触れかけましたが、彼は「もの」と「こと」の捉え方が無茶苦茶です。
他者との関係性は「関係性を持つ『こと』」であり、彼が思う『こと』と被害者が思う『こと』は別もの。
『もの』であるそれぞれの肉体そして『もの』的なそれぞれの流れる時間。それらをぶった切って犯行に及ぶ行為は、「世界は自分と被害者の関係のみで成立する」との妄想の成せる故。
時間を瞬間と捉え更に点と捉えるならば加害者と被害者は正にその点と点とが重なりあってしまった結果。
パチンコ店はそこにある『もの』そして通う者はそこに行く『こと』で何らかの現象が起きる。
そう考えると羽生名人が語る「最終的には直感が優先する」との感覚が冒頭の私の記述とも繋がる。
今回の被害者には酷だけれど、警察は全面的には当てに出来ない。最後に自分を守るのは自分などの『直感』を働かせるしか防ぐ術はなかったのかもしれない。
そして我々全てにも日々直感を磨くミッションが課されているとも言える。
「途中経過」から上がるか下がるかは『瞬間』にフェイクとしての点としてでなく、三次元の全体像の一部としての合理的判断次第だ。明らかに支離滅裂気味なので次回へ…
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