2015年10月26日

人生クソゲー理論の考察(2)

菊花賞も終わったことですし『クソ博打人間』として前回の考察の続きをします。

それにしても菊花賞は56kや57kを背負い慣れた東西のトライアル1着馬と2着馬の4頭ボックスでとれていましたね。
あくまでも結果論ですが…

とは言え実人生は結果論の連続とも言えます。

前回の考察では、生まれてから死ぬまでの単純な長さで評価が決まるとは言えないと語りましたが、つまりそれは勝者と敗者を決めたり金儲け競争が人生の本質ではない可能性を示唆したことになります。

少し前のラグビー日本代表の大畑氏は、選手としての年俸がマックスで2千万だったらしいですね。
彼のほぼ同級生でプロ野球に進んだ人間の中には2億稼ぐ奴もいたらしいです。

だからと言って大畑氏の評価や功績がプロ野球選手の10分の1にはなりません。
つまり、私が思うには自分の歩んで来た道(足跡)そのものの『作品性』が問われるのであり、A氏は何十億も資産を残したとなっても『偉人』の仲間入りは果たせないでしょう。
仮に偉人になるならば、稼いだ金全てを慈善事業に費やし家族にさえ財産は残さなかった場合でしょう。


さて、クソゲーながらも我々プレイヤーはどんな『作品』を残せたか程度は意識し自覚するべきに思います。

極端な例を出すなら、過去に小学生の命を奪ったが、現在は表の社会にいて本を出版した人間にも『作品』はあるかもしれない。

勿論、極端に良くない作品ではあるけれど、『クソゲー』にふさわしい作品と言えなくもありません(当然、犠牲になった方のことを思うと不謹慎ですが、間接的に死刑制度を支持している我々日本人全員が合法的な殺人者であり、そんな簡単な問題ではない)

本題に戻りますが、私は一年のうち365日は「今日で博打はやめよう」と決心しますが、同じ日数だけ「あーやっぱりやってしもた」となります。

大人しくしていたら家の2軒ほどは買えていただろうし、妻に去られることもなかっただろうし、息子達は今頃留学でもしていたかも?

人生はやり直しがきかないから面白い反面、やり直しがきかないから辛く悲しいものにもなります。
面白さや辛さや悲しさやらの無限大の数の絵の具を混ぜて歩んで行く我々の人生において、過去と言う大きなキャンバスにどんな絵を描くのか?

少なくとも既に何枚かの作品は残せたはずですが、筆を置くか置かないかも含めそれぞれの人間にとっての未来が試されそうです。 次回へ続く…


posted by tetsukazu at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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