2015年08月13日

徒然に(8)

インターネットの発達も伴い、誤魔化しも人のせいにも出来ない時代が来ているように思います。

「こんな立場・こんな環境で生まれ育っていなければこんな状況にはなっていなかったはず」と言いたい心を『ぐっと』おさえて『ギリギリ』のところで自分自身がやって行くしかありません。

金にもならない理屈を言っているその瞬間にも己の命が尽きるかもしれないし、誰かを誹謗中傷したりしているその瞬間にも人生が終わるかもしれないし、最近亡くなった元力士のように妻以外の女性と密室にいる時に息を引きとることだってあります。


そもそも太平洋戦争時は、自分の意思とは別に国家の意思が優先していました。つまり国家として与えられたものの一部が国民であり国家のためならば国民の命さえも犠牲にしても仕方がないとの仕組みです。

このブログを通じて私が主張して来たことのひとつに「人は己に与えられた要素をどう利用するかにより人生の方向性が大きく変わる」があります。

与えられたものとは、命や時間や生まれ持った容姿や資質や家庭環境や収入やパートナー等々です。
幸い、今は自衛隊を通じての志願兵が一般的なので一個人の命が全て一国家に委ねられることは無くなりました。
それでも世界では経済的背景の下で生活のために軍隊に志願する者もいることでしょう。

日本人として日本に暮らす中で、国家のために死んでくれと言われることもなく与えられた明日という一日をどう活用するのか?
何のために誰のために生きるのか?

大切な瞬間のために集中力を高めて行くのは当然として、特に大きなイベントのない明日に向けては集中力を高める必要がないと言えるのか?
いや、きっとそんなことはないはず。

個人の命が国家に委ねられていた時代の緊張感と自由過ぎるほど自由な選択が可能な今とで比較した時、自信を持って個人個人の振る舞いの質が向上したと言えるのだろうか?

70年前に国家(伝統・国土・子孫)のために死んで行った方々からの恩恵の一部を享受しているとの自覚を少しでも持つならば、今を生きる私達にも緊張感や集中力がよみがえるようにも思えます。
そのためにもこの夏に少なくとも自分自身の本当の意味での尊い生き方や毅然とした生き方を考えてみても損はないと思います。



posted by tetsukazu at 06:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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