2015年01月24日

前記事に続く。

相変わらず私の記事に誤字等が目立ちます。

前記事の佐藤泰志品の品は間違って付け足してしまっています。

それもあり、ネット上で佐藤さん関連の記事を拾い読みしていたら「鋭いな」と思った作品評・人物評があったので少し引用します(書かれた方お許し下さい⇒一部表現は私が脚色)。

孤独には、脚色された孤独と、人に見せられない孤独があり、更にはその中間辺りに存在する孤独があることが彼の作品からひしひしと伝わる。

特に中間に存在する孤独は宙ぶらりんとなりそれに苦しむことが多いことが作品から感じるが、それらの孤独のどの部分にスポットライトが当たるかでその深さや濃さに差が生じることがわかる。

かと言って、孤独と言う暗闇や生活上の暗闇が全くない場所なんてこの世にないし、もしそんな場所がありそこに人が居続けたら人は壊れてしまうだろう。

そう、必要なのは『光の調整』

暗闇に対して光の当て方は調整可能だ。けれども世の中にはそういった調整が苦手な人がいて、佐藤氏もまたそうだったのかもしれない。

佐藤氏は、「10年先のことなどわからない」と繰り返し語っていたが、ひょっとしたら彼は明日のことも、「いや」今日のこともわかっていなかったのかもしれない。


以上がその内容です。

古今東西の作家(映画制作や舞台芸術等含む)の中には生い立ちに恵まれていない方も多いと聞きます。
あの宮崎駿さんなども複雑な生い立ちのようですね。

だからこそ作品での追体験を通じで自分自身の心身のバランスをとろうとするのでしょう。

賛否両論あるとは思いますが、私はいつも語る通り良い悪いは別として、資本主義社会は『悪の塊(かたまり)』との解釈です。

ただ、自分自身も確実にそのフィールドに存在するのだから、『普通の塊』として悪への対処を怠るべきではありません。

それと、これは女性蔑視というのではなく率直な感想ですが、教会で結婚した時に神父が「病める時も苦難の時も死が二人をわかつまで共に暮らしますか?」に対して「はい」と言いながらやがて家を出て行き、「あの時はそう思ったのよ。若気の至りだったわ」と語る女性の言葉を何ひとつ信用する気にはなりません(結果的に元嫁批判にもなりますが覚悟の上です)

何も男を擁護するつもりはなく、去って行く男も同罪だし信用が置けません。

引用を繰り返します。
「自らの一部の孤独に当てた一時的な光はやがて他の孤独を照らすだろう」



posted by tetsukazu at 12:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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