2014年08月26日

未来は僕らの手の中に。

カイジでお馴染みの『未来は僕らの手の中に』との言葉は物語上の架空の概念ではなく、現実を表したフレーズに思います。

未来が手の中にあるということは、握った手を開くとそこに未来が見えるということです。

例えば、給料日に1ヶ月分の食料を購入する人間が居たとします。
握るその手の中には誰かに援助を受けることもなく1ヶ月後に食にありつけている未来が入っています。

もし私が余命1ヶ月ならば手の中に入れておく内容は厳選するのでしょうが、現実の私はそれ以上生きる保証も無いのに要らない要素が満載です。

そして要らない要素は今すぐにでも見つけられるしそんなものは今すぐに手の中から排除するべきでしょう。

では、排除するべき要素とは?

例えば『必要以上の見栄』例えば『時間の浪費』例えば『常識外れのお金の浪費』例えば『他者を犠牲にしてまでも得る己のみの快楽』例えば『圧倒的な能力を身につけるなどの理想の追及を怠る精神』などなど。

見栄を張らずに正直に生きて行くのが理想なのですが、女性が化粧したり時には買いたくもない流行りの服を身につけるように、男だってどこか自分を見失い無理しながら生きて行くように思います。
そして気がつけば自分が望む未来が見えなくなってしまい手の中にあるのは与えられた欲望だらけになっています。

冷静に考えると私には息子が二人いるわけでありもし二人が結婚すれば子供が生まれる可能性もかなりあります。
普通に考えるとそんな未来像が手の中に入っていて当然なのですが、それは残念ながら現状の私が握る手の中の未来に大きな像として映っていません。

とにかく、一時間後も一日後も一週間後も全て未来です。
朝まで寝ないと明日一日が辛くなること位の想像はつきますし寝る寝ないは個人の選択に委ねられます。
そのようにどう考えても個人にとっての未来は自分自身の選択に左右されるはずだし、時には命さえも左右する選択もあるでしょう。

望むべき未来にある程度の範囲があるのは当然として、大人であればその範囲位は最低限設けておくべきでしょうね。
誰に何と言われようがギャンブラーとして人生を全うしようとしていた私ですが、ボートレースの世界では『常識外れのフライング』との基準も生まれました。
いくらギャンブラーでも『常識外れの未来』が握る手の中にあるならば私の中に残る常識の力で排除するのがそれこそ『常識』かと…


posted by tetsukazu at 01:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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