2013年10月15日

主観的価値と客観的価値。

以前から価値についての話を煮詰めようと試みているのだが断片的にしか分析出来ていない。
そこで、もう一度原点から考えを進めてみたいと思う。

ご存じの通り経済学と言えば近代経済学が席巻しており新自由主義なるものが勢いを得ていてマルクスが分析した頃の経済(社会)理論を信仰する学者は今や絶滅危惧種化している。
マルクス達が主張したのはあくまで客観的分析であり主観的要素の入る余地は少なかった。
例えば、一時間で釣れるサンマは二匹で鯛なら一匹とする。その場合の価格差は倍でしかない。
マルクス達は価値や価格というものはどれだけの労働力が投下されたかで決定されるものだというわかり易い理論。
ところが近代経済学の出す結論は、鯛の方がサンマの5倍美味しいから価格も5倍で良いだろうとの考え方だ。
世の中にはサンマの方が美味しいと主張する者も存在するはずだが、それは無視して鯛の方が美味しいに決まっているとの主観が価格に反映してしまっている。
言い方を変えれば鯛に対して本来の価値以上の付加価値を与えているわけだ。
竹中氏なども価値の源泉は効用もしくは希少性だと力説して来た。

ヴィトンのバッグが国産の名も無き製品の10倍もの価格でも売れるのは需要と供給がマッチしているからなのだが、過剰な付加価値と言えるし広告媒体を通じての「ヴィトンのバッグを持つ貴女の価値も上がりますよ」的な洗脳の結果でもあると言える。
ただ、希少性と言ってもそのバックを強く欲しいと思う人間の主観が価値を生んでいるだけであり、興味のない人間にとっては価格ほどの価値は無い。

近代経済学はあくまで資本主義が未来永劫に続くとの前提の下に成立している理論であり、それは形而上学的なものだし弁証法的なものではない。
以前から何度も説明しているが、形而上学とは「水は水、氷は氷」との考え方であり。弁証法とは「水はやがて氷になる」との考え方。
普通に考えれば弁証法の方が科学的であり、日本人やドイツ人などもこの考え方に共感して来たはず。
それが、「神は神。人間は人間」のような考え方を支持するどこかの国を中心に広がった形而上学的考え方が現代の日本をも巻き込んでいると言える。
いつから日本は主観を重視する国になったの?
資本主義のまま経済体制が変わらないなどと考えるのはご都合主義にも思えるし思考停止にも思える。
私の予測としては国内の雇用における非正規社員比率は全体の5割程度にまで増えると見ている。

近代経済学的に言えば、資本から利潤が生まれ(株主配当など)土地から地代や家賃が生まれ労働から賃金が生まれるとの三位一体的思想。
つまり労働者の持つ所有物は「己の労働力」しかない。
では、その労働力が資本や土地のように武器と言えるのかというとそうではない。
企業に採用されて初めて労働力は武器化する。

人類の歴史は変化と発展の歴史でもある。
原始時代の長さに比べると資本主義時代の長さはしれたもの。
そんな体制を持って永遠に持続するかのようなアナウンスはミスリードであるはずのだがまだしばらくは革命も起きず、為政者・資本家の思うように国は動かされて行くのだろう。

資本主義が発展する中での問題点のひとつは「人と人との関係が物(モノ)と物(モノ)の関係になって行くところ。
女性から見た場合、目の前の男との関係を築くのではなくその男の財布の中身との関係を築くとの構図が出来上がってしまっている可能性があるし男もまた女性の肉体に価値を見出している可能性がある。
打算の感情を恋愛との言葉で包んでいるとすれば切ない。
それほどに裸の人間と人間の関係を結ぶのは困難になっていると言える。
あえて人生に価値を求めるならば「より素晴らしい他者と出会う可能性を高めるために努力を重ねる」ことにあるはずなのだが、それが「利用価値」のある他者選びになっているなら何かが狂っている。

寂しいから人と触れ合いたいのだが、寂しい顔をしている人間には誰も寄り付かない。
寂しくない人生の送り方は人それぞれ模索するしかないのだが、自宅で一人で過ごすことイコール寂しさではないことだけは間違いない。

今日もまた断片的に終わってしまったが、私の表情から寂しさが消えた時にまた記事を更新しようと思う。


posted by tetsukazu at 20:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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