2013年01月13日

雑感−48

昨日のエントリーを終えて言いたいことはほぼ言い尽くしたはずだったのに、グーグルやヤフーのワード検索を通じて訪問して下さる内容を確認したら再び書く気が湧いた(勝手ですいません)。

その気になったのは、たまたまワード検索分をチェックしていたら、2010年の7月12日にエントリーした 「欲望と時間」 というタイトル記事に対しての訪問者がいたこと。

「欲望 時間」 「時間 欲望」 のどちらで検索しても私の記事が1番目か2番目に出てくるのだが、これは意外だった。
もう2年半も経過しているのにそんなに上位に出てくることに驚いた。
それだけなら書く気には繋がらないのだが、その記事の内容の最後に 「書ききれないのでまたの機会で…」 と書いていた。
考えてみれば、このエントリーだけでなく様々なエントリーで 「またの機会」 と書いているように思う。
そう言いながらも続編らしきものを書いた例は少ない。 「栄養の話」 などは5回位に渡り書かないと書ききれないだろう。


ただ、今回の動機となった 「欲望と時間」 については私が常に掘り下げているテーマだし、ある意味人生は時間と欲望の追いかけ合いでもある。


そこでまず復習の意味で以前のエントリーの冒頭部分を再掲してみる。
    ↓




アンリ=ルイ・ベルクソン{(1859〜1941)フランスの哲学者 }は時間の量と質の違いを説いた。

ベルクソンは、我々の「意識の流れ」それ自体を「流れる時間」といい、時計で示される時間を「流れた時間」と呼んだ。「流れた時間」は空間的な量を示すものであり、時間そのものを表現してはいない。本当の時間は、意識における質的な「流れる時間」のことであるとベルクソンは主張する。そのような流れる時間を、彼は「純粋持続」と名づけた。
 「純粋持続」は音楽を例に考えると分かりやすい。音楽においては、音の流れ=メロディーを一瞬で聴くことはできないが、始めの音と次の音とのつながりを意識の中で持続することによってメロディーを理解することができる。通り過ぎてしまった音はすでに消え去っているにも関わらず、意識の中でつながりを保持しているからこそ、我々は音楽を鑑賞することができる。1つの音を記憶し、思い出して次の音との関係を考えて我々は音楽を理解しているのではない。ゆえにその瞬間の音だけしか聞くことができなければ、我々は流れるメロディーの存在を認識することができない。
 このようにベルクソンは実際に我々が意識において感じている「流れる時間」を「純粋持続」と呼んで、空間的に規定される物理的時間と区別したのである。

以上、ネット記事参考。

   ↑
ここまでが前回のエントリーの冒頭部分。



この 「純粋持続」 についてはロジカル(論理的)に思考する者が言葉を整理しても他者に伝えるのは困難に思う。
そこを長いブログ生活の経験を駆使して挑戦してみようと思う(今日のところは一言だけ)。

まず、ベルクソンの述べる、流れる時間(純粋持続)を基準とした 「音楽への理解」 を他の要素に置き換えてみる。


「人生への理解」「仕事への理解」「性への理解」「愛情(恋)への理解⇒感情への理解」「年齢への理解」「自己存在への理解」「他者への理解」 など。


1分間の音楽の中身が濃くて10分間の音楽の中身が濃いというわけでもない。
同じ様に、10年の人生より100年の人生が充実していると言い切れるものでもない。

意識の中で繋がりを保持している事柄については、無理やり意識から排除しようとしても排除は出来ない。
問題は、それぞれの事柄が 「美しいメロディー」 かどうかである。

「雑音」 の中で生活していると心の平静は保てない。

まず、子供の頃から持続して 「美しいメロディー」 と感じている事柄を中心に生活をする中で、人生の純粋持続時間を 「快適」 に過ごしたい。


余談として、もうすぐ映画版 「ストロベリーナイト」 が公開されるが、西島秀俊と大沢たかおとの間で揺れる竹内結子は 「快適」 な時間を過ごしたんやろな。



*最後に、武豊騎手 3500勝おめでとうございます。4000勝を目指しますとの言葉に打たれた。







posted by tetsukazu at 18:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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