2012年10月31日

雑感−24

人類が獲得した最も素晴らしいものとは?

いきなり壮大な問い掛けから話始めているが、それは 『火』 でもないし 『二足歩行』 でもないし 『言葉』 でもないと私は思う。

では何か?

私の今までのエントリーの全てを並べてみても出る結論になるがそれはやはり 『自由』 だと思う。
世界中の人々に 『自由』 という価値が行き渡った今、後戻りは出来ない。
永続的に社会主義を実現させようと考えた国々の指導者でさえ 『自由を実現させた社会主義』 を理想としていたのではないだろうか。

小さな存在である我々が過ごす日々に起きる悲喜こもごもの出来事も 『自由』 をキーワードにしてみると説明がつく。

前エントリーで触れたARBのボーカルだった石橋凌にしても(以下人物への敬称略)、カッコの良い楽曲を作ったけれど原田美枝子と結婚して三人の子供を育てている最中にアメリカ人女性との間に5歳の隠し子が存在することが存在した。
発覚後の会見では石橋凌は全てを認めると発言したが、男を下げたことに変わりはない。
隠し子については戸籍関係にはならず経済的援助に徹することになるのだが、女性二人が男性を奪い合う関係にならなかったことでかえってアメリカ人女性にとって石橋凌が何が何でも必要な存在でなかったのか?とのあらぬ憶測を呼ぶこととなった。
別に私は彼の作った楽曲に文句があるわけでもなく、人間は正しい道を歩き続けるだけの存在ではないことを自戒も込めて改めて心に刻もうと思ったからだ。

他にも男を下げた例を挙げればきりがないが、あの石原慎太郎だって隠し子(最終的に認知)の存在を否定し続けていたが女性に認知を求められ本意ではない結末となった。
始めから堂々としていれば男を下げることもなかったのだがウルトラ右翼と呼ばれる彼でさえこの様である。

有名なところでは布袋寅泰が高岡早紀との関係について 「火遊びが過ぎました」 とコメントしたことに対して保坂尚輝が激怒して布袋寅泰に直接のケジメを迫ったが、布袋寅泰は逃げ回ることに…
体格では逆の展開になってもおかしくないのだがこの例もまた男を下げた例。

女性問題ではないが今また民主党の現役首相が男を下げようとしている。
「近いうちに」 とは言ってみたもののご自分でも近いうちの定義がわからなくなっているのでは?との状況。
私は個人的にこのような姿を子供達に見せることが教育上良くないと考えるが、甘い考えだろうか。
親が子供に 「早く真剣になって勉強しなさい」 と言っても 「近いうちに本気を出します」 と言っておけば良いわとなったりする危惧。

ただ、もっと大きな視点で見れば先の女性問題や今回の近いうち発言問題も、形而上学と弁証法の違いで考えると説明がつく。

繰り返し言ってきた通り、水と氷は別ものと考えるのが形而上学で水がやがて氷になるとの考え方が弁証法である。
例えば、野田首相の発言を政治家の発言と割り切り形而上学的視点で見ると、政治と道徳・道理は別ものと考えることが出来る。
芸能人の異性問題だって上半身と下半身は別ものと割り切ればおかしくはない。
形而上学の本場は恐らくイギリスだが、いまだに資本家と労働者は別ものと互いが割り切っている側面がある。
現在では二大政党とは必ずしも言えなくなっているが、『保守党』 に対して 『労働党』 との名前はイギリスらしいネーミング。
法律や各種ルールにしても極力明文化せず慣習や過去の事例を根拠に運用するのが一般的。
そうでないとひとつの空間を暗黙のうちに身分によるエリアわけするなど出来ないし、競馬場に入るのに正装が条件などとはならない。
イギリスの意外な点はブックメーカーを通じてギャンブルがほぼ合法的に無制限に開放されている点。
このあたりは身分に関係なく自己責任の論理が毅然と成立していることと大人を大人扱いするという意思表示だろう。

イタリアなども首相の下半身問題と政治的能力は別と割り切っていそう。
そこは国民のリテラシー(物事や情報を自己判断で正しく選別する力)が働いているのだろう。

日本の子供達にしても良い意味でリテラシーを向上させ政治家は仕事をしっかりやってくれれば少々の矛盾点には目をつぶろうとなることが民度向上になるかも(ならないかも)。

資本主義社会の中で、自由に金儲けが出来て、住居を自由に移せて、基本的に言論の自由もあり、結婚の選択や就職の選択も自由である。
民主主義でもあるので、建前上は性による差別や職業による差別や住む土地による差別もない。

我々は、朝起きてから夜寝るまで建前上は自由が約束されている。
この状態からはもう後戻りが出来ない。
どのような自由を行使してどのような自由は行使しないかも自由。
そしてどのようなことに歯止めをかけるかも自分自身に委ねられている。
こんな時代に生きるひとりの人生は、自由の扱い方で90%方向性が決定するだろう。
自戒を込めて改めて 『自由』 と向き合いたい。


*追記=新着記事にもカテゴリー(日記)記事にも反映されないので(昨日の記事もそうだったようだ)おかしいなと思いブログ設定を見たら 記事非公開 となっていた。 えっ? 光にしただけなのに昨日からトラブル続き。
記事公開と設定し直したので次のエントリーから改善されると思います。
ただ何故か昨日と今日の記事自体は閲覧可能だったよう。記事タイトルからの訪問者はほほゼロだったのに訪問者自体は存在したため気がつくのが遅くなりました。


*訂正
形而上学の本場は恐らくイギリスと表現しましたが、本場はヨーロッパとの表現に訂正します。
イギリスの場合は思想的には経験論がベースになっており、形而上学も含めた思想から発展した末に達した結論なので国ごとにひとつの表現で思想的背景をはっきりさせるのはやはり困難です。
しかし今までも私が形而上学との言葉を使ってきた責任もありもう少しわかり易く表現し直しておきます。

形而上学は言い換えると二元論という考え方になります。
二元論を説明する際にデカルトの形而上学を引用する場合が一般的なので形而上学との言葉を使いがちですが日本語として一般的でないため二元論との言葉の方が自分自身も含めてより理解が進むかもしれません。
例えば、精神と物質にそれぞれ絶対的独立を認めるとすると、その二者間は無媒介性の性質を持つものとなります。
つまりその二者間は交わることがない要素同士ということになり仲介・中継・橋渡しするものもないとの前提となります。
私がイギリスを強調したのはこの二元論的特徴を感じたためでした。

対して一元論については精神を柱とする唯心論と物質を柱とする唯物論がありますが、唯物論的一元論との立場をとることが自然科学者達の中でも一般的になってきました。
しかしこの場合、人間の特徴である精神部分と肉体部分の合一性を説明出来ないことになります。
二元論で語ると精神と肉体が別ものになるし一元論になると精神も含め人間の存在が単なる物質のかたまりになってしまう。
この点は現代科学を持ってしても解決しない課題となる。
比較的しっくりくるのは、脳を中心とした脳主体の一元論になるかもしれません。
依存症の問題やうつ病の問題なども脳の機能に何らかの原因があるとされるのが一般的になりつつある。

とにかく一元論・二元論の問題はあらゆることに繋がる話であって私が今後生活して行く上で意識・無意識にかかわらず関心を持つべきことに思います。
時間があればもう少し勉強した上でエントリーに繋げられたらと思います。





posted by tetsukazu at 20:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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