2012年06月23日

生きている実感。

アシ夢


明日は上半期の競馬の総決算であるGT宝塚記念。
長男が観戦に行くとか行かないとか言っているが今日4000円負けたようでテンションはやや下がり気味のようだ。

人は様々のことに興味を抱き様々な行動を起こす。
私が考えるにその源泉となる要素は、『生きている実感を味わいたい』 ではないだろうか。

リストカットを繰り返す者がよく言う台詞に、「流れ出る血を見ると生きている実感がある」 というのがあるが、
その感情を全く無視してよいものだろうか。
映像の世界では最近のトレンドとして、『仮想現実』 がある。

押井守監督の 『アヴァロン』 『攻殻機動隊』『イノセンス』 そしてマトリックス三部作、『JM』 『13F』 『ダークシティ』 『マイノリティ・リポート』などの歴史を経て、最近ではあのクリストファー・ノーランが 『インセプション』 を撮った(映画にそんなに詳しくはないので2003年〜2009年までの公開作についてはスルーします)。

日本のテレビドラマにおいてもリアルタイムで放送中の 『未来日記』 も仮想現実空間を描いている。

この仮想現実とのテーマは現代におけるインターネットの進化と密接にリンクしているのは間違いない。
何もインターネットに限らず映画の出現やテレビ映像の出現の時点で人々は仮想現実と触れてきている。
そもそも毎日のように夢を見ること自体が一種の仮想空間に自分が存在するわけであり、夢の中でなら無茶してしまうことも多々あるのではないだろうか。

醒めて欲しくない夢もあれば夢であって欲しい現実もある。
夢の中のギャンブルで大勝ちした時は醒めて欲しくないが、現実の世界で大負けした時は思わずほっぺをつまんでしまう(わけないか)。

私の個人的感想はさておき仮想現実を扱う表現者にほぼ共通する認識とは次のようなものだろう(一部ネット上の記述を引用)。


私達が一般的に現実と思っていることは実は 『幻想』 であり、私達の持つ自我が生み出したものに過ぎない。
現実や世界といった3D空間は私達の生まれる前から存在し私達が生まれたその瞬間にその3D空間に放り込まれ、私達が死んでもその空間は残り続けると私達は思っているが、実は自分自身が持つ意識を中心に3D空間が展開されているだけで私達の命が尽きると現実空間は閉じてしまう。

地球上に50億人以上の人間がいれば50億通り以上の現象世界があり、ひとつとして同じ現実空間はない。
勿論、共通認識に基づく空間部分は存在するため人はそれを持って同じ空間に存在すると誤認してしまう。
つまり個人個人が観察し認識したものだけが物質化するだけの話。
近くのコンビニに買い物に行き買い物終了後にその店に背を向けた瞬間に、それはその個人の記憶の中にのみ存在するものであり、その個人の現実世界には存在しないものとなる。
このことは量子力学でも 「人間が観察した時にあらゆるものの存在が確定する」 とされている。
極端に言えば同じものを見ていても見る物によっては違うものに見える場合があるということ。

世界を素晴らしいものと捉える者もいれば世界は醜いものと捉える者もいるだろう。
どんな困難な出来事に直面してもそれを 『幻想』 と捉え、自分自身でもう一度観察し直せば別の景色が見えるかもしれない。


以上が概略。もっと複雑に説明することは可能だろうがそれでは私自身が理解出来なくなる。

私が常にこのブログでも言ってきたように、「あなたを一番愛してる」 との言葉は一見美しい言葉だが、もし好きな異性と結婚して子供が複数生まれたらどう表現するのだろう。
このように一番愛していると思っていたはずの相手は実は永遠の一番ではないのかもしれないし永遠の一番のままかもしれない。
配偶者しか目の前にいなければ一番だし長男しか目の前にいなければ一番だし次女しか目の前にいなければそれも一番なのだろう。


話をタイトルに戻すが、では 『生きている実感』 はどうして得ることが可能なのだろう。
一般的には 『五感』 を通じて感じるものと言えるが、恋した時のときめき感などは五感とも少し違う。
そうするとやはり脳から何らかの物質が出た時に生きている実感を得られるのだろうか。
私個人で言うと 「時が一瞬止まり幸福感が永遠に続くような感覚になった時」 になる。
しかしそれだとひとつ間違えばドラッグ系の作用と似ていないこともない。
私がギャンブルにはまるのもそんな感覚になるからだろう(まさに仮想陶酔感だろうが)。

もう少し話をまとめると、生きている実感とは全ての呪縛から開放された時や、逆にあらゆる重圧の中にいる時に感じる感情なのではないだろうか。気の合う異性と5時間過ごした後に、ほんの数分しか経っていないような感覚になる時は、時間も超越しているだろうしその二人にとって現実世界に互いしか存在しないとの感覚になって不思議でない。
F1レーサーなどもコックピット内では時空間を越えた世界にいるのではないか。
推測だがレース前とレース後では一般人が1ヶ月かけて歳をとる濃度を1時間余りで果たす気がする(浦島太郎状態)。
総理大臣が短期間であっと言う間に白髪になるのも常人にはあり得ないようなストレスがかかるからだろう。

これも推測だが、脳内から出るナチュラルな快感物質と 『集中力』 は密接に関係するように思う。
生きている実感とは集中している状態の時に起きる現象と捉えると、前述のリストカットの話はリストカットの瞬間に極限の集中状態だったのでは?とも思える。

とにかく全てが仮説レベルでの話なので普遍化につながる結論は出ないかもしれないが、ナチュラルに集中力を持続することは大切なことのように思う。


因みに私の前に横たわる現実とは、通帳残高であり、鏡に映るそれなりに齢を重ねた自分であり、しがらみを極力排除してきたおかげで得た自由な時空間だ。
ある意味私の未来は常に白紙である。白紙の未来日記に何を描くかで生きている実感の度合いは変わるだろう。


最後になったが私のブログらしく宝塚記念の見解を少し。
第一感としては、6番エイシンフラッシュと7番ルーラーシップと15番トゥザグローリーの組み合わせのワイド3点。

ただ、私の贔屓馬であるエイシンフラッシュが出るのにエイシンの複勝1点と言えないのがもどかしいが、臨戦過程がベストとは言えないのがネック。
今日の阪神を見る限り内目の枠を引いた時点で終わりのような雰囲気。
そうであれば1番ウインバリアシオンと2番ショウナンマイティは消し。
問題はオルフェーヴルだが、私は博打においては「あや」のついた場合は極力狙わないようにしている。
従って私はオルフエは見送る(勝たれたら脱帽するだけ)。

この前の皐月賞のように、ワープ走法で内をスルスルと抜け出す馬がいるかもしれないがそれは結果論になるので考慮はしないこととする。

内外の馬場状態を考えると、臨戦過程に問題ないトゥザグローリーの複勝が狙えそうだが、陣営は良馬場を望んでいる。

やはり消去法だと蹄の状態が良くなり普通の調教が出来るようになり折り合いにも進境が見られ馬場にも注文のつかないルーラーシップしかないように思えてくる。
ウィリアムスの腕を見せつけられてきたし土曜日の競馬を見ても4角好位から馬場の良いところを抜け出してきそう。

現時点の私的見解としては、ルーラーの単勝2単位・エイシンとのワイド1単位・トゥザとのワイド1単位にしようかとの感情をぐっとこらえて、私らしくルーラーシップの複勝1点で(結局そうなんかい!記事1行でええやろ!とのつっこみはご勘弁を)。






posted by tetsukazu at 20:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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