2012年02月05日

自由意志(意思)への理解。

前回のエントリーでは、理性の持つ働きに対して強い期待を持とうと考えたわけだが、脳の働きに対してまだまだ理解不足なためさらなる探求が必要だとの想いに至った。

武田一博氏が 『決定論』 の説明をする際に次のような例を出していた。
 ↓
あるドライバーが、事故を起こす前の時点で [事故が起こらないようにゆっくり慎重に運転する自由] を持っていたとしても、事故が起きてしまった時点で、そのような自由意志の行使は止まる。
事故を起こしてしまう迄の経緯は、自由意志と言うより [個人による何らかな行為は、行為者の性格やその時の状況により完全に決定される] と言った方がよい。
勿論、運転するという行為は自由意志によるものであり、運転するかしないかの選択においては当人の自由である。
しかし、ひとたび決断されると 『必然性の渦』 につなぎ止められてしまう。



我々の意識は脳で生じている過程を少し遅れで自覚しているに過ぎない(潜在意識先行)と以前にこのブログで述べたが、『人間の真の主体』 は意志や意識でなく 『脳』 であるとの事実に向き合うことでもある。

自由意志を突き詰めると、『単に望んでいること』 に過ぎない。
現実に何かを成し遂げようとする時には理性的意志が必要になるのだが、人間は意志が弱いため無理だと言えるほどの努力が伴わないといけないことも自覚している。
つまりいくら自由意志を持っても自らが望むことを実現するための行為を生み出すのは非常に困難な作業になる。

個人の行為は、積極的意志とは別に、脳のプログラムとして決定される遺伝的・神経生理学的・電気化学的なものに左右され易く、躾や教育や社会的強制力などによる後天的要素にも引っ張られるもの。
それら自分起源でないものに影響される自らの行為にどこまで自由度がありどこまで道徳的・道義的責任があるのかは今後も問われ続けるだろう。


日本が戦後何故高度成長を成し遂げたのか?
その理由については様々語られるが、私は大学教育レベルの低さにその要因があったように思う。
つまり、自己の頭脳で考えない人間を大量に生み出す方が、大量生産・大量消費時代にはマッチしていたのだろう。
そのような状況では自由意志などというようなものは戦後の日本では育ちにくい概念であったように思える。

マルクスは、世の中というものは対立や矛盾を統一・統合することで成立していると語っている。
男と女・雇い主と労働者などの対立する関係をいかに統一して行くかが常に課題となる。
理性と感情も矛盾を抱えているし、貧富の差を生む資本主義とひとり一票が基本であり平等が理念である民主主義も本来は共存出来ないはず。

私の知り合いに50歳を過ぎてもずっと独身の男性がいる。
それなりに貯蓄もしているのだが女性には縁がなかったようだ。
今は堤防沿いをジョギングするのが日課となっているようだが、「俺の人生はなんだったのか?」 と思う時があるそうだ。
彼は理性的には生きてきたと思うが、愛情を含めた感情を満たすことは出来ていないように見える。
ただ少なくとも自分自身に対する愛情は一定程度は注いでいるので生活が出来ているのだろう。



話を元に戻そう。

ひとたび決断すると必然性の渦につなぎ止められる。
決断に至るまでの過程は、脳主体・脳主導であり、そこに自由意志が関与したとしても実際の行為に大きく影響するのは先天的なものであり、外的要因による後天的なものである。
深層心理によるものであれ行為に及ぶ場合の最終選択は内的に生じる強い衝動から来るものだとは想像出来る。
その時、後天的な内的努力や自発的意識付けにより日々の行為にどれだけの良い影響を与えられるかは、個人差が果てしなく大きいように思える。
望む未来があるとして、実際の現実とのギャップがあまりにも大きく感じている者は一度立ち止まり考えてみる必要があるだろう(当然私自身も)。


望んでいることを実現させるまでの過程は簡単ではない。
それどころか望んでいないことばかりが目の前に現れることだって大いにある。
2回のエントリーを通じて、決定論をキーワードとする過去・現在・未来、そして個人の意志(意思)・選択を考えるための入り口に立ったが、最新物理学の世界でも物質・反物質の関係など次から次へとテーマが出てくるのが現状。


決断し選択する。私達はその行為を生きている間は延々と続けて行くことになる。
真の主体である 『脳』 へどんなアプローチをする必要があるのか?
恐らくだが、人間は背負う物が多ければ多いほど内面の豊かな人間になって行くのだろう。
好きなことを少々我慢する生活位のほうが、望む方向へ向かいそうな気がする…

知り合いに高級スポーツカーに乗って好きなアーティストの音楽を聴くのが最大の楽しみと言う者がいるが、それが彼の望むことならそれはそれでひとつの生き方に思う。












posted by tetsukazu at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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