2011年11月18日

=Group selection=

生物の進化に関する概念及び理論の一つである群選択(Group selection)説についてのWikpediaの内容の結論部分のみを抜粋してみる。

   ↓

種の保存論法はしばしば至近要因と究極要因の混同を伴う。至近要因とは動物の行動の動機となる心理/生理的メカニズムであり、究極要因とはその心理/生理的メカニズムを形作った進化上の原因のことである。

混同の典型例は交尾(性交)である。性交は性欲や子供を持ちたいという至近要因によって引き起こされる。その結果、繁殖(個体の存続)が起きる。性欲を持たない個体は繁殖せず、そのような性質は広まらない。これがなぜ性欲が存在するのかという究極要因である。「種の保存のため」は至近要因(性欲)とも究極要因(繁殖)とも関係がない。表面的に「種の保存のために繁殖しているかのように見える」だけである。



以上になるが、結論部分だけの抜粋なので他の事柄とも関連させて考えてみたいと思う。

群選択説とは、人間社会が何らかの規模でグループを作り、結果としてそのグループにとって最適な状況になっているという仮説と言えるが、
そこに個人の判断・意思はどう関われているのだろうか。

リチャード・ドーキンスは「人間は遺伝子の乗り物」だと結論付けたが、小浜逸郎に言わせると恋愛については人間はかなり主体的に関われるものだそうだ。

「なぜ人は恋をするのか?」 に対して、
小浜氏の見解は⇒それは身体が孤立しているという誰もが抱える事実を何とか乗り越えたいとする希求の意識に基づいている。
恋愛は、この希求の意識を心身の結合を伴う『物語』によって満たそうとする試みである。
そしてこの個別性を解消しようとする「希求の意識」こそが人間の本性をを成すものであり、人生に『意味』をもたらすための基本条件を成しているのである。


ここからは私の超個人的見解になる。 
例えば人間が作り出したコンピュータについて言えば、操作する人間の指示により作動するのであり、その指示・命令が常に最優先する。
しかし生身の体である自分自身の判断・行動については自分自身が指示・命令の主体となる。
コンピュータの場合、内部のプログラミングを超えた機能は果たさないし基本的には有用な働きを目的としている。

ところが人間の場合、自分自身の内部のプログラミングについてさえ精通しているのかどうか疑問。
本来、指示や命令は有用なものであるべきなのに自分が自分に出す指示により起きた行動の結果、とても有用とは言えない結末を迎える時がある。

群選択説やドーキンス博士や小浜氏のこともふまえて考えた場合、以前にこのブログでも取り上げた『メリットの法則』が人間の行動原理をかなり的確に捉えているように思える。

前にも述べたが、メリットの法則とは短時間で具体的メリットが得られることが予見される場合に人間はそのメリットを得るための行動を起こすというもの。

先に例に挙げた群選択説を説明する中での「至近要因」と「メリットの法則」がリンクするし、小浜氏の言う『物語』は{単純な本能ではない、意志の力による前向きな良い習慣}を身に付けることで綴られるものだろう。

一人の人間の生命の物語は現代では70年前後続く。
メリットと交換に何らかの選択をするのだが、そのメリットが個体にとってのものなのかグループにとってのメリットなのか。
もし結果としてグループのためのメリットに終始しているのであればドーキンスが語るように、遺伝子の戦略に嵌っていることになる。

自分自身の肉体をパソコンのハード部分に置き換え、そのパソコンの存在意義・存在目的を考えることで自分自身の行動目的のヒントにはならないか。

どちらにしても人間一人の存在は誰かにとって、または何かにとって有用であることは間違いない。
第三者の利己心により行動させられるのか、自分自身の利己心のために主体的に行動するのか、結果としてそのどちらを選択しているかが大きな問題となる。
そしてその選択は自由に主体性を持ってすることが可能なのだろうか。

操り人形として操られたまま一生を終えるのか、それとも自分の意志で踊るのか。
かつてスイープトウショウという牝馬がいて鞍上の池添騎手を散々手こずらせた。
最近ではやはり牝馬のアパパネがゲート手前でごねた素振りを見せる。馬でも強くて可愛い奴の我侭は通るのかな。
彼女らを見ていると変な話主体性を感じるなぁ。
角居調教師は次のように語る。
   ↓
「牝馬は強い調教をしなくても気持ちで走るんですよ」

何か人間にも当てはまる気がするなぁ。 女性も気持ちがのると頑張るもんなぁ。

時間に振り回され、人に振り回され、お金に振り回され、仕事に振り回され、そして精神世界にも振り回される。
そうではなく、いい意味で俺様気質でちまちませず堂々と生きてみようじゃないか。
済んだことは済んだこととして次に繋げれば良い。

高校野球で、我々はスポーツマンシップに則り正々堂々と戦うことを誓います。と宣誓するが、
本当の意味は、スポーツマンシップについては⇒戦う相手や審判やルールを尊重し敬意を払うこととの意味で、
正々堂々とは⇒攻めにも守りにも強くある。との意味。

日曜日はマイルチャンピオンシップ。
堀厩舎と言えば、休み明けでもきっちりと仕上げて来る厩舎。鞍上は厩舎とベストマッチの福永騎手。
馬券を買うファンの気持ちも尊重している印象。3歳の春に攻めの姿勢で古馬相手に堂々と戦った。
この秋も休み明けの毎日王冠から手を抜くことなく戦った。

リアルインパクトが馬券圏内に来ることが主体性を持った上で個体・個人でも進化出来るのだとの一つの証明になるだろう。


















posted by tetsukazu at 03:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 私的本質論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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