2011年06月18日

意思のバランス。

意思(または意志)についての私なりの解釈については以前より語ってきたが、
『自由意思』 の奔放さには振り回されるので、もう少し掘り下げたいと思う。

つい最近、鳴門市の給食費を扱う職員が不正を働いたとのニュースが報道された。
横領した金はお決まりの如くギャンブルでの散財(ボートレース・競馬)。
私などにとっては本当に迷惑な話なのだが、犯行者も己の自由意思を制御出来なかったのだろう。

英語では、 「私は生まれた」⇒「I Was born」 になり、 
日本語に言い直すと受動態である 「私は生まれさせられた」 になる。
つまり、当然だが生まれるか生まれないかの選択の自由は、生まれてくる個人は持てない。
しかし生まれてしまえば行動のかなりの部分が自由意思により反映される。
ただし、この人と結婚したいという自由意思と、この人とは結婚したくないとの自由意思は対等である。
つまり、〜を絶対したいとの自由意思を覆すためには〜を絶対しないとの自由意思でしか対抗出来ない。
この、〜したいとの意思と、〜しないとの意思との葛藤はそれぞれにとって過去も現在も未来も続くだろう。

俺は誰が何と言おうと絶対煙草を吸い続けるという人間と、誰が何と言おうと絶対吸わないという人間がいたとする。
そのどちらの方が意思が強い人間と言えるであろうか。

神は絶対に我々に対して請求書は出さないと言う人がいる。
なかなか含蓄にある言葉に思う。
恐らくだが純粋な価値観とは経済的なことから最も離れたところにあるのだろう。
資本主義社会では悲しいかな99%が経済を基本に語れてしまう。
金がないと結婚も出来ないし行きたいところへも行けないしそれ以前にまずご飯が食えない。
最近、ハワイにも事業所を持つベンチャー企業の社長と話をしたが、向こうの人は9対1の比率で、
だます人とだまさない人に分かれるらしい。弁護士資格を持っている人でさえボッタクルらしい。
その点、日本人は真逆の1対9の比率で、だます人の方が圧倒的に少ないと感じているとのこと。
世界標準では、タクシーの運転手も弁護士も神ではないし金を請求する教師だって神ではない(当たり前だが)。

日本人でも外国人でも何らかの価値観を元にして、日々判断・選択を繰り返す。
勿論、己の物理的利益のためにシノギを削るのだが、関わる以上はまっとうするぞとの意気込みは必要だと思う。
時には利益とは無縁のことだってあるだろう。

でも



やりたいことがあり、欲しいものがあり、会いたい人がいる。
こんな素晴らしいことはない。
仕事にしても食べて行くためのものでしかないかもしれないが、関わる以上まっとうするぞとの意気込みを持ちたい。
人類は多くの間違いを犯してきた。しかし奴隷からの開放を成し遂げた(ほぼ)ことは叡智だと思いたい。
自由な意思で自由な空間で自由な時間を使い、やがて下した結論に対しては誰からも何処からも請求書が来ないように心掛けたい(前述の不正を働いた者には莫大な負の請求が…)。
そして、社会の中での約束事が個人の自由意思よりも優先するということも常に念頭に置きたい。



日曜日の函館競馬メインの五稜郭Sは、ブリンツェン・ホッカイカンティ・リリエンタールの3頭立てと言ってもいいようなメンバー。3連複一点でどうだろうか?(または3頭から2頭を選んだワイド一点)



posted by tetsukazu at 00:52| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
何事につけても新しがり屋の日本人が、時代遅れの精神生活を送っているのはどうしたわけか。

日本人には、意思がない。だが、恣意がある。
だから、意思を恣意と間違って解釈することになる。
すると、以下のようなことが起こる。

西洋文化の輸入も、意思がなければ支障をきたす。
意思の自由は考えられるが、恣意の自由は考えられない。
恣意の自由は、<自由のはき違え> となり、自由主義の普及も難しい。
意思は自由主義・個人主義の友人であり、恣意は利己主義は不自由主義の友人である。
不自由を常と思えば不足なしか。

政治指導者の意思決定はなく、その恣意決定は受け入れ難い。
意思の表明は成り立つが、恣意の表明は成り立たない。
日本人の声明発表はうつろに響く。その形式的な声明には、実行の意思がないからである。
そして、きれい事というか、空理空論には現実対応策が欠落している。ああ、むなしい。

意思があれば、罪もある。
殺意があれば、殺人罪である。
殺意がなければ、たとえ人は死んでも、死刑執行人は罪に問われることはない。

日本人には意思がない。
意思は、未来時制の内容である。
日本語には、時制がない。

意思薄弱とも思える日本人の社会では、意思を確かめることは難しい。
人々は個人の意思を確かめるこなく、個人の恣意に関する察しに専念する。  
察しにたけた人物は、思いやりの深い人間として信頼されている。
だから、裁判員になることについて、日本人には多大な精神的抵抗がある。
罪の意識のない社会では、人々は罪を裁くことを望まない。<責任者を出すな> と叫ぶ。

日本人には、意思 (will) はないが、恣意 (self-will) がある。
成案はないが、腹案がある。
意思・成案を表すのには、文章が必要である。相手がその矛盾を指摘することもできる。
だが、恣意 (私意・我儘・身勝手)・腹案には、文章は必要ない。
恣意的な人間は、言語に不自由をしている子供・アニマル同然である。大和魂の持ち主のようなものか。ど根性か。

日本人が子供に見えるのはこの時である。
周囲のものが指導者の意思を察するのである。ただ意向というか、はっきりしないものを察するのである。
政治家と公設秘書のようなものか。一致団結して阿吽の呼吸でやる。
俺の目をみろ 何んにもいうな 男同志の 腹のうち。腹案がある。共謀関係の立証は難しい。
察しは他人の勝手な解釈であって、いざ罪のありかを定める議論になれば、それでは証拠不十分となる。
意思の存在を認めることのない社会で、意思の有無を確認することは難しい。

腹案の内容は、腹を割って見せなくては知られない。隠ぺい体質の産物である。
それには談合が必要である。小言、独り言の類が語られる。
内容は、決して公言・宣言としては表明されることはない。

恣意を文章にすることは、英米人はやらない。
理性を失うことは、恥ずかしいことだからである。
やれば、周りの者から嘲笑される。
彼らは、'Shame on you!' (恥を知れ) と言って、相手をしかりつける。
だが、これを日本人はやる。この種の恥は、日本人にはない。
これを '本心をさらけ出す' と言い、内々で甘えさせてもらうのである。
相手は、'真意は何か' と尋ねる。
この行為が英米人の日本人に関する不思議である。

恣意的な人間は、滅私奉公により調教された。わが国の伝統的な人間教育は、序列人間を作ることである。
意思を認めることのない社会での責任者探しは難しい。無責任な社会では、それ特有の犠牲者を出さなくてはならない。
だから、日本人は恣意の理不尽に耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで生活する必要があると教えられている。

意思があれば、その内容も明らかにすることができる。
意思の内容に賛同して、協力者も現れる。
恣意であれば、その内容も明らかにすることがでない。
恣意は誰もが嫌うので、協力者が現れることもない。
日本人は、戦争のときでさえ、絶対的な権力者を作ることはなかった。

文章が無くては、議論は始まらない。
無理が通れば、道理が引っ込む。だから、問答無用である。
上下関係で決着をつける勝負の世界である。猿山のサルと同じかな。
自分の(恣)意のままにならぬ相手を切って捨てるところが恐ろしい。

世俗的なものの上下を知らなければ、礼儀正しい日本人になることも難しい。
日本人の礼儀作法は、序列差法だからである。序列なきところに礼儀なし。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

Posted by noga at 2011年06月18日 06:06
>nogaさん
大変参考になる文章ありがとうございます。

私にはレベルが高すぎる内容ですが何とか理解出来るよう努力します。
日本語の「た」で終わる文も「完了」でなく「過去」を示すとの意見もあるようなので、
細かく分析すればそれぞれの言語にも現在進行形で発展はあるのかもしれないですね。
ただ御説の通り、フィンランド語などは「過去・大過去・大々過去・未来・近い未来・遠い未来」で単語が変化するようです。

日本語に、「前向きに善処する」とか「考えておく」などの曖昧言語が多いのは事実。
そのため日本人に、「何となく良い結果が出れば良い」程度の心情で事に臨む傾向はありそうです。

日本人は『遇有性』⇒(他の状態でもあり得るがたまたまその状態である)の捉え方を考え直すべきかもしれません。
自身による将来展望に基づき選択・判断を行なうわけですが、その判断と結果とが確かな因果関係であるかの確定的な評価は困難。
そうであるならば、恣意によるものであれ意思によるものであれ『遇有性』と自己責任の関係は確率論の世界になりそうです。

人間は言語を通じて世界を知るのですが、神の概念だけで考えた場合、米国のようにハッキリとはしていません。
米国で神の存在を信じますか?と聞けば9割が信じると答えますが、私は話半分に考えます。
あれだけ合理的判断をする米国民が真顔でそう答えているとは考えません。
恐らくですが、公と個を使い分けていそうです。
神を信じますか?と第三者から聞かれた場合は公の部分を強調出来る柔軟さやしたたかさを持っているのでしょう。

私が日本人に対して??と思う具体例として集合マンションでのペット飼育を挙げます。
フランスでは憲法上、集合住宅でのペット飼育禁止ルールの設定自体が違法状態だとの現況だそうです。
日本の場合、行政は見て見ぬふりのような立場でありペット販売業者も売る時に飼育環境までは確認しません。
ペット飼育禁止ルールのある集合住宅で平気でペットを飼育する人間の理屈としては、「癒し効果」があるなどですが、
飼育者はルールを遵守するとの基本的感覚は持っていません。
行政機関の曖昧な姿勢が市民全体の空気にも繋がっているのでしょう(既成事実を作れば強引な反発は生まない)。
パチンコ店の景品交換問題なども同類。文鎮などに一旦交換して店舗すぐそばの景品交換所で現金に交換するのはどう考えても違法。
それを警察機関も絡んで合法としているところに憤りを感じます(参加している私が言うのも何ですが)。

集団がルールを守るとの基本合意が出来ていない社会の行き着く先は暗いでしょう。
それは個人においても言えるわけで、全てにおいて本音と建前を使い分ける発想になります。
人前で建前を述べるのはまだしも、自分自身の人生設計においても刹那的なものに流されかねません。

絶対的な権力者と言うとついヒトラーを思い浮かべますが、コンプレックスから生まれるパワーは健全ではないのでしようか。
となると、エリートが国家を先導するイメージになりますが鳩山氏の現状を見るとそれも違う気がします。
目的を持つことが意思を持つことに繋がるならば、目的自体を自由意思に任せるととんでもない輩も出ます(国家転覆を目論む組織等)。

「健全性」とは何でしょうか?一夫一婦制の中では稼ぎの多い男は女性の2〜3人を囲うことこそが経済的健全性を保つことと言えない事も無く、
「健全性」の定義はつまるところ「周辺要因」に影響されるような気がします。
「健全性」を突き詰めると生殖目的以外の性的行為は不健全となるようにも思えます。
人間を崇高な存在と信じて真の社会主義実現を目指してのあの結果は、人間はそんなに崇高なものではなかったとの結論が出た故の結末だと見ます。
国家が生まれたそもそもの発端も人が人を支配することを是としたからだと考えます。
物事をコントロールすることの出来ない人間は誰かにコントロールされるのがお似合いです。
nogaさんが仰るように私自身を省みても日本人には意思がないとのご意見には同意せざるを得ない側面は感じます。
しかしユートピアがもしないとすれば、人生に正解などないかもしれません。
まず目の前の課題をこなすことの連続性のなかから変化が生まれるはずです。それが良い変化であるためには他者性を強く意識することではないかと思います。


Posted by tetsukazu(管理人) at 2011年06月19日 02:07
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