2011年04月18日

自由と束縛。

昨日は間一髪助かった。
マイラーズCの馬券を買おうと思い最終チェックをしていると
狙い馬であるゴールスキーを管理する池江調教師のコメントに
「今回は急仕上げだ」 との内容のものが含まれていたことを知った。
情報は、多く入れすぎるとまとまりがなくなる場合があるため
関係者のコメントは鵜呑みにしないよう心掛けてはいるが
狙っていたはずのレース前のこのコメントは無視出来ず購入は断念。
結果はご存知の通り不可解な敗戦だった。
昨年から使い詰めできていたので目に見えない疲れがあったのだろうが
馬券に対する意識が高くなっている最近のファンの支持があったので
マイナス要素についての見方が甘かったようだ。
博打というものはこのように直前の閃き・予感なども重要な要素なので
今後も最後の最後まで集中して接して行きたい。

さて、今回のタイトルは 「自由と束縛」

オッサンが今更何をのたまってるんや!との突っ込みには既に慣れている。
変わらず我が道を歩きあーだこーだとのたまいたい⇒漢字少なすぎ(笑)

大学を卒業してせっかく就職したのに2〜3年で離職する者。
好きな人と結婚したのにパートナーに別れを告げる者。
例外もあるだろうが、それらの人達に共通するであろう一つの側面がある。
それは、物事をある一面からしか見ないことだ。
あらゆる事物・現象を球体と仮定するならば、どの側面から眺めるかで
見え方や印象が変わってくる。

離職する者や積極的に離婚を選択する者は 『自由』 と 『束縛』 を
全くの別物と考えているのだろうが、実はそうではない。
その両者は一体なものなのだ。
会社に勤めることや結婚することにより確かに束縛は生じる。
だが、同時に何らかの自由も生じるのだ。
理不尽な命令に従いながら日々仕事に従事するのはストレスの連続だ。
ただ、報酬を得ることにより生活上の自由を多く獲得することも出来る。
亭主の我侭に付き合い、毎日の献立を考えたり浮気の心配をするのは大変。
ただ、そんな束縛がある反面、経済的な安定や社会的・精神的安定も得る。

会社をやめたり家を飛び出したりした瞬間から束縛はなくなるかもしれないが
経済を基盤に成立していた自由もなくなってしまう。
それどころか国民年金や国民健康保険などの請求が始まり
公共機関 つまり別の社会からの違う意味の束縛が発生する。
誰も住まない離れ島で暮らせば自由と言えるかもしれないが
そんな自由を望みたいのだろうか?

『箱庭の(中の)自由』 との表現があるが、本当の自由なんて
ある程度の枠組みの中でしか得られないのかもしれない。

日本の歴史の中で、自由との表現が出てきたのはいつの頃からか知らないが
近代化する前は、勝手とか気ままとか思いのままとかの表現を使っていたように思う。
西洋が使用する場合の自由は、恐らく義務や責任を伴うとの意味合いがあるのでは?

共産主義でやっていけるほど人間は勤勉でなく
市場原理主義でやっていけるほど人間は有能でない。 と自虐的に語る有識者もいる。

勤勉で有能。勤勉で無能。怠慢だが有能。怠慢で無能。
勤勉で有能な者ばかりが存在するわけではない。
束縛から逃れようとする前に、少しだけ立ち止まり 「俺は(私は)勤勉?有能?」
と、しばし考えても手遅れではない。


人間が煩悩から逃れられないことは歴史が証明している。
煩悩とどう付き合って行くか? それを考え工夫することこそが 
『知恵・英知』 ではないのだろうか。


話は変わりますが、少し前にブログで書いた 『ヘヴンズ・ストーリー』 の再上映が
関西地区でも始まっています。 4月23日〜29日 は、大阪の十三のシアター7で
上映されます。 都合がつけば29日に行きたいと思います(もちろんひとり…泣)。
4時間を超える長編なので気合を入れて座ります。


4月19日追記
書き込み後に自由と束縛についてもう少し考えてみたところネット上に
なるほどという表現の論文があったので一行のみ引用をお許し願えれば幸いです。
     ↓
「自分を一番自由にしてくれる束縛、それを探して行けば良い」


posted by tetsukazu at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 私的本質論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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