2011年03月23日

脱コード化の時代を生きる。

いきなり 『脱コード化』 をタイトルにしてしまい、どんな記事になるのか見通しがつかないが思いついた以上書き進めてみる。

脱コード化とは資本主義社会を 『脱領土化』 と表現したところから来ているらしいが、
現在では専ら 『歴史的に蓄積されたパターン』 から脱するとの意味を成すことになっている。

浅田彰氏の有名な著書である 『構造と力』 で、自由→社会や他者からの拘束から逃れること。 ともとれる表現をしたため、その後の知識人の間では、 『自由』 の本質論が議論されたし、スポーツ界においては中田英寿氏も 『自由』 について言及しているしその中田氏は思想を具現化するためなのか 『旅人』 を自認している。

浅田氏に対する批判のひとつには次のようなものがある。

「近代社会では、自己を反省し自分がどうあるべきか、そしてどのような行為をすればよいかを自己の内面に深く問いかけながら生きて行くことが可能になった。そのことこそが真に 『自由』 の獲得と言える」


人類の歴史は、カオス的状況→秩序ある文化(コード化された原始共同体・超コード化された古代専制国家)を経て、脱コード化された近代資本主義社会の誕生に繋がって来た。
神や王のような超越者が秩序の中心であった時代は過ぎ、今や中心なき時代であり、もし中心と呼べるものがあるなら、それは 『貨幣』 の存在が神や王を相対化したものとして機能していると言えないこともない。
しかし、貨幣は日常の様々な場面で 『カオス』 を吸収するが、同時に貨幣は常にその姿を変容させ社会や個人の秩序の破壊の一端を担う役割も果たしてしまう危うさも持ち合わせている。

そのような背景の中で組織や個人が生き抜くためには、常に 『脱コード化』 を繰り返す必要に迫られる。
ただ、問題は脱コード化の捉え方である。
会社40年説や50年説があるように、どんなに繁栄した組織でも劣化は進むし時代の要請とのズレが出て来る。
とは言え、起業を試みたからといっても上手く行くとは限らない。
留まるも地獄、進むも地獄の可能性もある。

そこで、先程例に出した自由の捉え方にヒントが隠されているように思う。

我々は既に、反省してそれを将来に生かすことが出来る 『自由』 を獲得しているのだから、その立場を最大限に活用して賢明に歩む必要があるのではないだろうか。

勿論それは組織においても言えること。
正に今回の震災で問題を起こした東電の歴史を見ても、反省点を生かせたとはお世辞にも言えないように思える。

ソシュールの言語論、そしてジャック・デリダに象徴されるポスト構造主義に見られる言葉を借りるまでもなく、
言語によってありのままの客観事象や意識・経験を完全に表すことは不可能である。
よって、我々が目の前に置かれた課題を克服し攻略するためには、言語以外の手段が必要となる。
つまり、 『行動』 であり 『結果』 である。
そこは、 『頑張った』 との主張や 『明日から努力する』 との決意とは遠い世界だ。
ソシュールが出した結論は、 「差異が意味を作る」 だ。
『差異』 とは何を意味するのか?

・間違っていないものが正しいもの。
・子供でないものが大人。
・貧してないのが福。
・本能だけの動物でないのが人間。
・見失わない状態が向き合う状態。
・反省する人間と反省しない人間。反省を生かす人間と反省を生かさない人間。

果たして自分自身は 『意味ある存在』 と言えるであろうか?
他者のことを 「あんなひどい奴はいない」 と言い切れるであろうか?

横道に逸れても逃げ込む場所がないのが近代という空間。
自由を得た代償とはいえ、変容し続け成長し続けることでしか中心なき時代は生き抜けないのだろう。


posted by tetsukazu at 03:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 私的本質論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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