2009年12月08日

自己責任論と感情と理性と

身の上話ばかりでまさに独り言の世界だが
ブログを通じて親交を深めた方との会話の中で
自己責任論の話になり考えさせられた。

資本主義体制の中での社会は何のためにあるのか?
それは生産の道具として社会が必要だから。
ロビンソンクルーソーの世界には社会は必要がない。

資本主義では人間も資本の人格的存在であり
広く言えば人間関係だ。

道具をキーワードにすれば法律も会社も道具と言える。
会社は金儲けのためのシステムの中に存在し
仲良しクラブでは存続出来ない。
資本主義は一部の資本家がどんどん豊かになる
システムであり労働者は搾取される存在である。
資本家にとっては労働者が生きようが死のうが
関係ないが、一定の数は必要なので生かさず殺さずを心掛ける。

貧乏人の悩みのベクトルは一方向であり少しでも豊かになりたいことが主。
資産家に生まれた太宰治が死を選んだのはお金の悩みではない。

過去に戦争に巻き込まれた日本も単純に言えば
欧米列強国が資本の過剰蓄積となり海外投資を推し進めた影響をもろに受けたため。

社会は組織であり個人にとっては組織との調和が不可欠である。
しかし現実は個人と組織に調和などとれない。
そこには対立軸があるのみ。
個人として社会と融合するための数少ない手段は
ひとりよがりでなく相手(他者)の気持ちになって考えることだ。

考えるという行為をスルーした個人は感情で物事を決めるし好き嫌いが判断要素でもある。

では、考えて前に進めるような利口な人間のとるべき思想、態度、行動とは?

利口な人間が愚かな人間の相手を必要以上に続けると
第三者からみれば利口な人間も馬鹿に見えてしまうもの。

愚かな者が大勢いる輪の中に入ってしまっている者は
どんなに強がっても第三者の目には馬鹿の仲間にしか映らない。

一般論で言えば馬鹿はその場の感情で行動して後で後悔する。
もっとひどいと後悔もせず全部他者の責任と主張する。

所詮、馬鹿と利口は相容れないのかもしれないが
社会の中では自分の意思とは別に同席するしかない局面もある。
例えば公立の小学校や中学校であったり趣味の場であったり。

私がギャンブル場にいる姿は他者が見れば利口には見えないはずだ。
かといって図書館にいれば利口に見えるかと言えばそうでもない。

多くの人間は仕事をするか学校へ通っている。
仕事場や学校で過ごす以外の時間についてはそれこそ
幼稚園児位から自己の選択によりそれぞれが過ごす。
自分自身を振り返っても自由時間を過ごす時に
素直に親や先生のアドバイス通りにした覚えがない。

そうであるならば人生における結果はかなりの部分が自己責任である。

饅頭が目の前に3つあって、適量は1つで3つ食べるとお腹をこわすとする。
10歳の子供がその場面で3つを食べた時、それは誰の責任なのか?

3つ食べたらお腹をこわすことを教育出来なかった親に責任があるの?
それとも10歳にもなれば自制心のひとつも備わっているはずだから
本人の責任なの?

もっと食べたいとの感情に打ち克つためには理性の力が必要になる。
社会や親や子供自身がそれぞれの意見を持ったとしても
そこにある現実はお腹をこわした個人の存在だけだ。

まず現実・事実が先に立ち、分析は必要だが個々人の未来の判断を事前に知る術はない。

神様を作り出したのは人間だと仮にする。
神様をも金儲けの道具に使う勢力がいるとすれば
純粋な個人や真っ直ぐな個人や優しさや思いやりをたっぷり兼ね備えた個人は
金儲けを企む勢力の良いお得意さんになる。

悪徳商人に騙された庶民に自己責任論を当てはめて良いかどうかだが
社会が様々な価値観を持った人間の集合体だとすれば
自己責任論を強く意識していないと社会から振り落とされる。
いざとなれば誰も助けてくれないしいつのまにか日本の国の失業保険は
最長150日程度になってしまっている。
国家が失業する個人を自己責任と扱っている証拠。

最近目にした毎日新聞の記事を見ると19世紀後半にマルクス主義の台頭を危惧した
ドイツの宰相ビスマルクが社会保障政策を充実させたとなっているが
私が知る限りではビスマルクは資本主義を守るために庶民にアメを与えたそうだ。

このように社会は、国家や組織や集団や個人がそれぞれの都合の良いように振舞うわけであり
その渦中に存在する個々人は余程自己確立が出来ていないとスポイルされてしまう。

繰り返すが、仕事場や学校で過ごす以外の時間の使い方とは多岐に渡る。
買い物をとっても10円でも安い物を買う姿勢の者とそうでない者とは
3年程度の単位では手元に残るお金の違いが出て当然。
お金のかかる趣味に興味を持つのかそうでないものに興味を持つかでも変わるし
お金や手間のかかる友人や恋人と付き合う場合とそうでない場合も大きな違いが出る。

そう考えると人生に退屈な瞬間などないはず。
日々選択の連続なのだから。
もし退屈と言う者がいたとすればそれはやっかいなことを他者に押し付けていたり
本来するべき日常の煩わしいことから逃げているだけなのではないか。

資本主義=社会=人間=お金 
やりきれないがそれが現実であり生きるということ。
あらゆる意味で余裕がない人間に与えられた余暇は限りなく少ないと考えられる人間が
利口な人間だ。



posted by tetsukazu at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 私的本質論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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