2015年10月30日

低貸し時代(パチ・パチ)に思うこと。

最近は1円パチンコや5円スロットが流行りですが、俗に言う『アベノミクス』政策とは逆行してパチンコ・パチスロはデフレ時代です。

そうなると私達がそれらにかかわる動機と向かい合うはめになります。

そんなに多くの機会ではないものの行く時は私ももっぱら5スロになります(20円スロットなら千円で50枚のところ5円スロットは200枚)

もしもこのまま2.5円スロットなどの時代に突入するなら実質3円スロットのゲームセンターと変わらなくなります。
そうなるとゲームセンターの方が設定が良い場合、遊ぶことだけを目的とするなら満足度は断然ゲーセンが優ります。

『射幸心』を満たす要素として、『換金』が主な要素なのか『当たり』が来る瞬間が主な要素なのかは人により異なるとは思いますが、割合の違いだけで恐らくどちらの要素も含まれるだろうし、脳内分泌物質との関係は深いと思われます。

さて、私の場合はと言うと『現実逃避』との側面が強い気がします。
そしてもうひとつとして『負けることによる現実回帰』があるように思います。

結局、「ストレスがたまり解放しようと非日常にワープしたものの一見退屈とも言える日常に戻って来たな」との心模様を繰り返すだけです。

ただ、それを繰り返すことで繰り返す前より状況がプラスになっていれば歓迎すべき行為ですが、ただ嫌なことから逃げているだけなら自分自身を取り巻く環境は『悪化』しかねません。

体調の問題で近々大きな病院で処置することになりそうですが(こんな時に長男が側にいてくれて本当に救われる)副作用としてアルコールを摂取しなくなりました(病気とは関係なし)
それでもノンアルコールビールはたまに買って飲んでいます。
すると不思議なことに飲んだ気分になるんですよね(今までの飲酒習慣は惰性だったのか)

このように、様々なことで本来の目的と手段がつながっていないものがあるはずなので見直せるものは見直したいですね。

『なんちゃってギャンブル』『なんちゃってアルコール』のように『なんちゃって家族』や『なんちゃって妻』などが出てきても不思議ではないですよね。
冗談は抜きにしてもロボットが『なんちゃって友達』になる日も来るだろうし、さんまの番組では「犬を飼うことでの幸福感はセックスの幸福感と同等」と言っていました。


どちらにしても子供銀行紙幣を貯めての『なんちゃって貯金』は流行りそうにはありません(蛇足)



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2015年10月26日

人生クソゲー理論の考察(2)

菊花賞も終わったことですし『クソ博打人間』として前回の考察の続きをします。

それにしても菊花賞は56kや57kを背負い慣れた東西のトライアル1着馬と2着馬の4頭ボックスでとれていましたね。
あくまでも結果論ですが…

とは言え実人生は結果論の連続とも言えます。

前回の考察では、生まれてから死ぬまでの単純な長さで評価が決まるとは言えないと語りましたが、つまりそれは勝者と敗者を決めたり金儲け競争が人生の本質ではない可能性を示唆したことになります。

少し前のラグビー日本代表の大畑氏は、選手としての年俸がマックスで2千万だったらしいですね。
彼のほぼ同級生でプロ野球に進んだ人間の中には2億稼ぐ奴もいたらしいです。

だからと言って大畑氏の評価や功績がプロ野球選手の10分の1にはなりません。
つまり、私が思うには自分の歩んで来た道(足跡)そのものの『作品性』が問われるのであり、A氏は何十億も資産を残したとなっても『偉人』の仲間入りは果たせないでしょう。
仮に偉人になるならば、稼いだ金全てを慈善事業に費やし家族にさえ財産は残さなかった場合でしょう。


さて、クソゲーながらも我々プレイヤーはどんな『作品』を残せたか程度は意識し自覚するべきに思います。

極端な例を出すなら、過去に小学生の命を奪ったが、現在は表の社会にいて本を出版した人間にも『作品』はあるかもしれない。

勿論、極端に良くない作品ではあるけれど、『クソゲー』にふさわしい作品と言えなくもありません(当然、犠牲になった方のことを思うと不謹慎ですが、間接的に死刑制度を支持している我々日本人全員が合法的な殺人者であり、そんな簡単な問題ではない)

本題に戻りますが、私は一年のうち365日は「今日で博打はやめよう」と決心しますが、同じ日数だけ「あーやっぱりやってしもた」となります。

大人しくしていたら家の2軒ほどは買えていただろうし、妻に去られることもなかっただろうし、息子達は今頃留学でもしていたかも?

人生はやり直しがきかないから面白い反面、やり直しがきかないから辛く悲しいものにもなります。
面白さや辛さや悲しさやらの無限大の数の絵の具を混ぜて歩んで行く我々の人生において、過去と言う大きなキャンバスにどんな絵を描くのか?

少なくとも既に何枚かの作品は残せたはずですが、筆を置くか置かないかも含めそれぞれの人間にとっての未来が試されそうです。 次回へ続く…
posted by tetsukazu at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月24日

真実・事実・選択

私は物事を掘り下げる性格のようで、シンプル思考に難があるのですが、今までのエントリーを白紙にして人生をあえて三つの要素に集約すれば、『真実・事実・選択』になると思います。

現肉体の人生が有限であるのは真実だし、どの場所でどのような状況で産まれ落ちるかは客観的事実と言えます。

そんな制約の中でも個々として一定の選択の余地があります。

しかしその選択が正しいか間違いかは一概には言えず、納得するかしないかで心象は変わります。

この前のエントリーで人生クソゲー説の立場で記事を書きましたが、スクエアエニックスの元社員は、独立後の著者で、5500円のドラクエソフトに自分の人生が面白さで負けてはたまらないと主張します。

ゲーム上なら対戦相手に負けたら経験値はそのままだが、実人生は負けても経験値はアップするのだからそのメリットを最大限生かすべきとも語ります。


読まずに死ねるかとか観ずに死ねるかと言って死ぬ直前まで小説や映画と関わっていた人間もいます。

さしずめ私の場合は、『金の価値に代わる真実を自信を持って語れるまで死ねるか』ですね。

以前にも語りましたが私の父親の口癖は『世間をなめるな』でした。

そんな父親ですから私がどんなに苦労をかけても私を尊重し続けてくれました。

金より価値のあるものに気付くまで、更に気付いてからもお金との葛藤は続くでしょう。
posted by tetsukazu at 13:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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