2012年02月26日

賭け続ける男(破)第50話

最近のテツは何故か鏡を見ながらにやにやしている。一体何があったのか。


テツ‥今日の競馬もメインレースの時間が近付いてきたな。
ボートレース常滑は三井所が前出走戦に続いてGT優勝戦で連続の1号艇。
今度こそGT初制覇が成るかが見物やな。
競馬は、中山記念のトゥザグローリーが断トツの人気やけど1800mの距離は少し短い気もするなぁ。
狙い目は人気でも3番枠に入ったフェデラリストかな。
中山1600mと1800mは圧倒的に内目の枠が有利とされてる。
蛯名は内ピッタリに張り付いてのレースは中央の騎手ではトップクラス。
差しが届きそうなので、馬券はフェデラリストの複勝1点かな。
フィフスペトルはもう少し内目の枠が欲しかったな。

それにしてもすれ違うだけでハッと振り向きたくなるようなオーラが出てる人っているよな。
言葉では表現出けへんけど生き方とか考え方が無意識に外見に反映してるんやろな。
絵に描いたような男っ振りを目指すつもりはないけど最低限の身だしなみと最低限の肉体作りには気を付けたいと思うわ。


どうやらテツはようやく身にも構う気になってきたよう。
人間なんて総エネルギーをどういったバランスにするかの違いだけ。
総エネルギーを目一杯増やせたとしても他者の2〜3倍が精一杯。
後はそのエネルギーを何に使うかの違い。博打に多くのエネルギーを消費していたテツだが、総エネルギーを増やす作業も順調に行ってるみたいなんで博打に注ぐエネルギー量をそのままにしたまま他のことにもエネルギーを注ぐ用意が出来たということか。
ひょっとして今年こそテツから浮いた話のひとつも聞けるかも…


17時45分 追記
結果⇒フェデラリスト1着。 複勝210円。

テツ‥それにしてもシルポートって馬は狙いどころが難しい馬やな。
リュウが狙い続けてる馬やけど裏切られ続けているだけにそろそろ見限ったとしてたら…
三井所はまた負けたな。今年に入りGTでの優勝戦の1号艇で勝ったのは松井繁だけか… プレッシャーをはねのけて順当に勝つのはホント難しいな。
5月からは持ちペラ制が廃止になりボートレース場に備え付けのオーナーペラ制度に変更になる。
外注してペラを用意していた選手などは厳しい戦いになるやろな。
福井支部の選手なんかは石丸ペラと言われるペラを使って一昨年は大活躍をしたけど昨年は勢いは落ちてた。ペラの開発競争が激化してた証明かもな。
松井繁などは自分で叩けるだけにオーナーペラでもレース場で叩いて調整すると思うが、自分で叩くのが苦手な女子選手などへの影響は大きいやろな。
ただプロっぽいファンにすれば制度変更直後は稼ぎ時かも。
三井所の2節連続の活躍もペラが当たっているようやし瓜生がどこのレース場でもモーターを噴かすのも独自の調整力があるからこそ。
単なる旋回力は愛知の池田浩二・平本真之、群馬の秋山直之・沖縄(支部は愛知)の原田幸哉、三重の井口佳典、福岡の篠崎元志・岡崎恭裕・瓜生正義、石川(支部は福井)の今垣光太郎なんかが上位やけど、5月からはその旋回力+モーターの基本性能が中心になるんやろな。


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2012年02月24日

笑って暮らせてますか?

お金より大事なものって何ですか?


答えは簡単で、「健康と若さ」


下の写真は路上でダンスパフォーマンスをしていた女性三人ユニット(少女時代やKARAの楽曲)。


お金に対する一喜一憂も落差があるが、健康面や年齢に関する精神面の上げ下げの幅はもっと大きい。


では、豊かさとは何ですか?


私の答えは、「毎日笑って暮らせること」


いくらお金があっても笑って暮らせない日々を豊かな暮らしとは言えないと思う。


便利なものって自滅に対しても便利なんですよね。


個人の価値観は、時代や世の中の価値観の支配を無視しては意味を成さない。


時代に背を向け世間に背を向けていては自己実現など不可能。


AKB48の前田敦子さんは、前田敦子を演じることで輝く。前田さんがドラマなどで他の役を演じても本人を演じることを凌駕出来ない。


普通の個人も自分を演じることで人生に輝きやオーラが出るように思う。





今年は、総合力において過去最高レベルに達したいとの想いがあり課題でもある。
個々人の総合力を数字で表すのは難しいが、実感レベルにおいては目標に達したい。
年齢を考えると、肉体面での衰えを精神面で補い更に経験値を最大限まで引き上げ具体的成果に繋げたい。
理想は肉体面でも若干の向上を実現させたい。肉体トレーニングもかなり長期に渡ってきているので走力などは別として不可能なことではない。

写真の女性達のように路上でダンスをして人を喜ばすようなことは出来ないが、私の年齢や立場で実現可能なことをしたいと考えている。
まぁ一言で表すと、 「男磨き」 を極めることなのだが…


ダンスパフォーマンス。







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2012年02月20日

イモト。

テレビをつけたままにしていたら画面に雪山風景が広がり、何かなと思えばイモトアヤコさんが南米大陸最高峰のアコンカグアという山に登るとの番組だった。
その時間帯のそのチャンネルの番組は見たことがなかったのだが、少し見てみたい気持ちになったので途中から最後まで見てしまった。

結論から言えば、「根性ある女やな〜」  「プロは凄いな」 との感想。

プロと言うのは登山のスタッフのことになるのだが、登山は己との戦いでもあるので彼らの賢明で慎重な判断は見ていて非常に参考になった。
それと同時に、プロのスタッフが、心と言うより体の限界に来ているイモトさんに向かって 
「絶対登るって言ったじゃないですか。その言葉を思い出して下さい」 と声を掛けた場面が印象に残った。
ついさっき、イモトさんのブログを確認したがそこでもそのことに触れていた。

人は誰かに認めてもらいたいとか人に褒めてもらいたいとかの感情がある。
それは当然あって良いし、それが向上心に繋がることも多いだろう。
でも、簡単には頂上に辿りつけない山に登るという行為は、自分と向き合うことなので基本的には他者の目を意識するようなものではない。
イモトさんも今回、下山時の顔はおよそ色恋などとはかけ離れたものだった(他者の目を意識するということが外見を繕うとの要素だけでないのは当然だが)。

資本主義社会の中では合理的選択を繰り返すことが非常に重要だ。
攻略困難な山に登ることが合理的選択には思えないが、人間の行いは最終的に精神力を含めた心の問題抜きには語れないのもまた真理。

今日は夕方、年末にも記事にしたNHKのコロンビア白熱教室(今回はアンコール放送で第3回)を見た。
盲目の女性教授のシーナ・アイエンガーさんの講義なのだが、第3回分である今日のテーマは 『選択日記のすすめ』 
いつも思うのだが、私が100世帯あるマンションに住んでいるとしてその中の何世帯がこのような番組を見ているのかなと…
メモをとりながら見るような理屈好きな私のような人間でないと最初から最後まで見るのは苦痛だろうと思ってしまう。

今回の内容を要約すると、直感と理性は選択する行為においてどういった働きをしてどちらの働きがより重要と言えるのかとの内容。
結論から言うと、直感と理性の融合が重要とのことになるが、直感は過去の経験などから生じる感覚なので、過去の経験をどう蓄積するかが大事であるとも述べていた。
そのためには過去にどのような選択をしたかを日記にして残しておき、@経験による練習・習慣化A情報を整理した上で復習(フィードバック)B今後の実験 などへのサポート材料にすることで、より正しい選択が可能になるだろうと。

直感の話では、チェスの名人の話も出していたが、その名人の [先を見ないこと] を意識しているとの話を流用していた。
偶然かもしれないが、将棋の羽生氏も同じ様なことを言っている。
目の前にある局面に集中すればするほど選択幅が狭まってくるのだと…
投資家のウォーレン・バフェット氏が語る直感の例も出していたが、バフェット氏は [危険なにおいを嗅ぎ分けられる] らしい。

 
イモトさんもそうだしアイエンガーさんもそうだし先に出した著名人諸氏もそうだが、経験を通じて技術や能力を高めると共に、心も確実に鍛えている。
本当の戦いとは壊すことでなく創ることだと言う人の話は正しいのだろう。
自分と戦い、社会の中で葛藤し戦い続けることの果てには説明可能な形になっているのが理想だ。

イモトさんがプロのスタッフに強い気持ちで訴えかけたように 「絶対に〇〇する」 と言い切れることがあるのだろうかと胸に手を当ててみるべきだろう。

 

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2012年02月18日

プライド。

一部の富裕層(案外多そうだが)や秀でた能力のある者(容姿なども才能・能力と考える)以外にとっては景気の良い話が少ないのが現実。
そのような状況の中、個々の価値観を持ち、何を優先すべきかを日々考えながら生きなければならない。


最近、他人事とは言えない話を聞いた。
私の極近い知り合いのそのまた知り合いの境遇に関することなのだが、女性の方が今50歳前後でその女性の元夫が少し年上。
二人の間には成人した子供もいるのだが、5〜6年前に離婚している(離婚当時は未成年)。
別れに至った主な理由というのが夫のアルコール依存。奥さんが酒を隠してもいつの間にか見つけ出しては呑むの繰り返し。
最後の方は酒瓶に目盛りを付けて管理までしたようだが上手くは行かなかったとのこと。

別れてからも夫は元妻に頻繁に電話をして来て、復縁を迫っていたようだが女性は受け付けなかったよう。
男性の方はその後、会社でリストラに合うは体調を崩すはで生活保護の身に。
子供達は母が引き取っていたため男性が生活する場に人が寄り付くことはなかった。
ここからは悲惨過ぎて語るのもつらくなるが、新聞受けに新聞が溜まって行く中、配達に伴う関係者の通報により行政関係者が動き、男性の末路が発見されることとなった。

60代や70代ならまだしも50歳そこそこでのこんな人生の終わり方を知ると、切ない気持ちになる。
自分が歩んで来た人生のツケが最後に返って来たと言ってしまえばそれまでだが、心の弱い人間は確実に存在する。
人間はそれぞれの価値観も異なるし、プライドの持ち方も違う。
今、マスコミで話題となっている中島知子さんの問題にしても、相方である松嶋さんの結婚の問題と無縁ではないだろう。
推測でしかないが、中島さんは心の奥で相方より自分の方が知性もあるし容姿の面でも優っていると思っていたような気もする。
何故自分は幸せになれないのかと考える内に、心は空回りし自尊心の持ち方が間違った方向に行ったのかもしれない。
プライドは本来、人と比べるのではなく自分自身の価値観の中で保つべきものであろう。

昨日たまたま見たテレビ番組で、俳優であり監督でもある伊勢谷さんが語る中、インドのストリートチルドレンのことを話題にしていた。
ネットで確認すると、世界のストリートチルドレンの総数は3千万人〜1億7千万人と言われているらしい。
定義の仕方によりカウントの仕方は変わるが、正確な統計は存在しない(そもそも国勢調査や人口調査には含まれない)。

ストリートチルドレンにプライドが無いのかと言うとそれは違う。
これも以前にNHKで見た番組だが(世界最貧困国の一つと言われるハイチで生活する兄弟の10年を追った特集)、彼らにもプライドはあった。


下の写真は、先日ある女性からもらったマフラー。以前にもブログで書いたが、YOSH I K I 好きの私より年上の方。
バレンタインとは関係ないからねと言われたが、それにしても限りなく14日に近い日にいただいた。
この前のチョコもそうだが、今回は何が嬉しいかと言うと、YOSH I K I を評価するような女性に気に掛けてもらえていたことだ。
俗に[類は友を呼ぶ]と言う。変な奴の周囲に変な奴が寄るとの話が本当であれば私のことを気に掛けてくれる人達は少なからず私と共通する価値観を持つ人に思える。

この2年、いやドロップアウトして以来この数十年間はプライドを失う寸前で何とかプライドの端くれを保ち続けて来たのが実情。
先に出した男性のように、よりを戻してくれなどただの一回も言っていない。
恥ずかしい話だが、前も言ったようにお金での解決も含めてこの2年強の間は女性との肉体関係はない(ホンマにこんなところで語るような話でないが)。
別に風俗に行くお金がないわけでなく(一日の賭け金だけでもで余裕で行ける)、自分自身の中に譲れない一線があるから。
私が兄貴と慕う方からは、「いい加減女の一人も作らんかい」と言われるが、そんな気持ちに中々なれないし誰でもいいというわけにもいかない。


ストリートチルドレンのプライド、大金持ちの持つプライド、そして私が持つ誇りや自尊心。
それぞれの価値観によりプライドの質は違う。
親交のある[けいけん豊富な毎日]のけん♂さんは 「プライドの高さとプライドの強さは違う」 と以前に述べられていた。
私はけん♂さんとの何かのやりとりの中で、「しっくりくるという感触を持つ時ってあるんですよね」 と語ったことがある。
自分自身でしっくりとくる 『プライド』 そして 『強固で崩れないプライド』 とは何なのだろう。
先に例に出した男性のことを他人事などとは決して思っていない。
ただ、私は何が起きようとも生きている限り格好悪くてもあがき続けたい。
そして胸を張って俺には譲れないプライドがあると言い続けたい。


自分の人生なのだから…



私らしく少しだけギャンブルの話を。
少し先になるが、チューリップ賞に2戦目でGTを制したジョワドヴィーヴルが出走する。
確実に勝ちたい人はそれまでぐっと我慢して単勝で勝負してみたらどうですか?
後は色の話も少し。あるお店の女性からチョコを用意したので遊びに来てねとメールがあったが、結局行かずに今週は終わりそう。
私の性格上、そのようなメールには100%近く応えてきたのだが、この一週間は何故か引っかかりが抜けなかった。
女性には謝罪のメールを入れたが、人の気持ちを配慮出来なかったことに変わりはなく男としても一回り大きくなるしか自分自身も納得出来ないし女性にも失礼である。
しっくりとくるものとの視点で考えれば、飲み屋さんで他の男性のお客さんと同志の空気感でひと時を過ごすことに少し違和感を持ち出している。
何かを捨てないと何かを得られないとすれば、プライドを回復させるために捨てるものが少しばかりありそうだ。


サプライズ。



posted by tetsukazu at 19:42| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月15日

自覚。

14日はチョコレートを一個もらえました。
昨年も下さった年配の方で、ご夫婦で長年保護司をおやりになられている方です(実際には御主人が任命されていると思います)。

毎回、丁寧にメッセージカードも添えていただき本当に有難いことです。
この二年は誰からもチョコなどもらえなくても当然の立場なので、必要以上に感激しました。
保護司という立場は、犯罪や非行に陥った人の更生を支援するという大きな役割を担っています。
私がどう見てもご夫婦共人格者です。 また人格者でないと保護司など務まりません。
ご主人にはいつも 「君はいい男やな」 とお褒めの言葉をいただきます。
ご主人とは夏祭りや餅つきや地域の清掃のボランティアでもご一緒させていただいており、私の様々な面を観察してのことなので掛け値なしの言葉として受け取っています。
今回、奥様からいただいたメッセージカードに書いてある 「感謝」 という言葉が常に頭にある人間はそう多くないと思います。人間同士を感謝し合う関係として日頃から捉えているからこそ自然に出てくる言葉なのだと思います。

そんなご夫婦と接する度に私の心は洗われるのですが、ご訪問して下さる方はご存知の通り私は俗人なので何とか少しでも近付ける存在にならねばと思います。
昔は、聖職という言葉が生きていたと思います。教師・宗教家などがそれに当てはまるように思いますが(医者もそれに近い)、特に教師の不祥事は後を絶ちません。
警察官などの不祥事も多いですし政治家や公務員も入れればきりがありません。
だからといって自分自身が俗人のまま人生を終える必要もありません(人に良い影響を与える俗人なら別)。

人間同士の関係って意外に腹の中を明かして会話したり表情を作ったりしていないように思えます。
しかしメッセージカードに書かれている言葉は表も裏もない澄み渡った心から出てくるものに思います。
私はそれに対してどう応えればよいのか考えてしまいます。
ご夫婦を見ていると生き様が顔にも表情にも出ています。私はどんな顔をしてチョコを受け取り奥様の目にはどう映ったのかなぁ。

昨年から今年にかけて私はほんの少しだけど成長した気もしますが、文字通りほんの少しの歩みです。
三日前位から突然、ダウンタウンブギウギバンドのボーカルの宇崎竜童が唄う [身も心も] を唄いこなせないかと頑張っていますが、たった一曲の楽曲が思うように唄えない(骨のある男っぽさがどうしても出ないということは骨がないからかも)。
今まで何百という曲をカラオケなどで唄ってきたはずなのだが、ひょっとしてただの一曲も満足に唄えていなかったのではないかと思い始めています。

歌だけでなく、人生全般において本当の意味で真剣に向き合って来たのだろうかと考えると心が寒くなる。
私は人に感謝されるような生き方をして来たんだろうか?
この年齢で何から手をつけてよいのかわからないが、一曲の歌と真剣に向き合えないようならば何をやっても中途半端になる。
何が大切なのかを自覚した上でひとつひとつ手を抜かずやって行くことしか道はないのだろう…

心。









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2012年02月13日

愛やら恋やら快感やらお金やら。

脳がどうだとか決定論がどうだとか言いながら一方ではギャンブルのことも忘れてはいないのが生身である私。
風邪もひくしお腹も減るしお金も欲しいし暇も欲しいし話相手も欲しいしひとりの時間も大事である。

ホイットニー・ヒューストンさんが亡くなられた。
私がいくら人間とは?愛とは?人生とは?と能書きを言っても彼女の歌声の前では何の力も持たない。
彼女のように全世界の人々に大きな感動を与え続けた人生は素晴らしいものだが同時に苦難の連続でもあっただろう。
名誉や富を築く中で、それに群がる人達も多くいただろう。
純粋であればあるほど人は傷つき逃げ場が必要となる。逃げ場の選択を誤れば思いもよらない道に迷い込むかもしれない。

知り合いに聞いた話だと、ある男がいてその男には内縁の妻がいたが、ある時期から愛人も作り途中からはその愛人の元で暮らし内縁の妻は捨てたらしい。
ところがその後はよくある話だが、愛人には捨てられひとりになってしまったらしい。
その男の情けないところは、その後で再び捨てた女性の元に舞い戻ったこと。
それだけならまだよいのだが、その男によると「舞い戻ったものの女に金がないんで戻った意味がなかった」 とのたまっているらしい。

はぁ〜? 私には全く理解不能である。とは言え信頼のおける知り合いからの話なのでほぼ事実として捉えてよいだろう。
こんな男も種としては私と同類になる。私には彼と共通する遺伝情報が備わっていないとは言い切れない。

この男の内部にある遺伝情報に愛だの恋だのは存在せず、自己の利益や自己の快感が大きな割合となっているのかもしれない。

最近のエントリーで、ドーパミンの話を少しだけしたが、冗談ではなく人間の脳のネットワークは実際には愛だの恋だのとの要素はなく、人を好きになったりする際に何らかの快感物質が放出され(例えばエンドルフィン類・ドーパミン)その時の高揚感を愛だの恋だのと呼んでいるだけかもしれない(癒しを感じる時はセロトニン)。
生殖活動に関する行為にしても摂食行為にしても睡眠活動にしても何らかの快の感覚を伴う。人間が生きて行くために必要なことと快の感覚がセットになっているのは偶然でなく、人体内部における合理的機能なのだろう。

では、仕事をしている時は不快な状態なのかとなるとそれは考え方次第で大きく違ってくるように思う。
仕事中に集中している場合は、あっと言う間に時間も経過するだろうし集中時に出る脳内物質も不快ではない物質のように思う(例えばアドレナリン)。

今週はバレンタインウィーク。ひと昔前なら♪バレンタイン・キッスのメロディーが流れてきそうだが、最近なら♪チョコレイト・ディスコといったところか?(違うか)。

年に2回。この時期とクリスマスの時だけは、街の自称ギャンブラーも愛だの恋だの語ってもバチは当たらないはず(と言うか別の意味でバチだらけだが)。

愛と恋と快感とお金に順番は付くのだろうか? 私の出来ることは昨日の自分より今日の自分、今日の自分より明日の自分が成長するしかない。
そして成長の実感は結果として表れることで得られるはず。男として成長しているならば快感やお金だけでなく愛やら恋やらにも縁が出来るのでは…

ホイットニー・ヒューストンの大ヒット曲⇒I will Always love you(スペルが正しくなければお許しを) 「あなたの人生が穏やかでありますように あなたのすべての夢が叶いますように あなたに喜びと幸せが訪れますように でも何よりも あなたが愛とともにあることを願っている そして私は あなたを愛し続けるの 愛しいあなたを ねぇずっと あなたを愛してる あなたを愛し続けるわ」

誰かを愛し続けることが自分自身の喜びになるのなら人生は豊かなものとなる。誰かの歌声から勇気をもらったように自分自身のメッセージが誰かの支えになるような生き方が出来るのだろうか… 


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2012年02月11日

賭け続ける男(破)第49話

テツも独り身になって2年以上経過してそろそろ真面目に今後のことを考え出しているようだ。
他の誰よりも日々を後悔しないような考え方で生きてきたテツにとっては思いの他生き延びていることにとまどいもあるよう。
若い頃に一緒にバカ遊びしていた仲間が肝臓障害などで先立つ姿を見るにつけ己の運の良さを改めて感じているようでもある。


マサ‥テツさん。最近全く連絡がなかったんですが、仏門入りでもするんすか?

テツ‥あほか。そんなもん簡単な審査によりお断りすることもございますとの規定に引っかって丁重に断わられるワイ。

マサ‥??

テツ‥あのなぁ。人間なんてそう変われるもんやないんや。可能性としては元々の真っ当な部分を取り戻せた場合に変わることもあるけどな。

マサ‥で、テツさんは変われそうなんすか?

テツ‥お願い!僕を変えてくだしゃい。

マサ‥はい了解です。いい医者を紹介しますね…

テツ‥つかみはええからギャンブルの話でもしょうか。話だけなら金もかからんし。

マサ‥いやいや。テツさんが話だけで終わるわけないっしょ。

テツ‥そうか?ま、そこまで言うなら耳寄り情報でも教えよか?

マサ‥あのぉ〜 そこまでも言ってないし耳寄り情報も特に求めてないですし。

テツ‥まぁまぁそんな遠慮せんでもええがな。今日のボートレース芦屋(GT)の準優勝戦第10Rの1号艇の三井所のモーターがエグイ位噴いとるんやわ。

芦屋第10R

@三井所尊春 佐賀 32才
A赤岩善生  愛知 35才
B笠原 亮  静岡 32才
C飯山 泰 神奈川 33才
D正木聖賢  広島 37才
E三嶌誠司  香川 43才

昨日の第11Rでは6号艇で5コースに入り、鬼足で最後は頭まで突き抜けた。タイムは1分45秒1。
第12Rでは赤岩が1号艇で1コースから逃げ切り。タイムは1分45秒0。
腕から行くと三井所を破る可能性があるのは赤岩と飯山やけど、三嶌が3コースまで動きそうなので飯山は5コースになりそう。
そうなると3連単は三井所と赤岩軸でほぼいけるやろ。ただ進入が予想以上に深くなると笠原や飯山が赤岩より上位着をとることもあるかも。
どっちにしても3連単10点張れば90%は舟券が的中するやろ。ま、この90%という数字をどう考えるかだけやな。

購入割合は、現時点では 1−2−3⇒10P 1−2−4⇒15P 1−2−5⇒5P 
1−2−6⇒5P 1−3−2⇒5P 1−4−2⇒8P 2−1−3⇒5P 2−1−4⇒7P 
2−1−5⇒3P 2−1−6⇒3P  合計66ポイントで。 1ポイントをいくらにするかは懐と相談したらええ。
的中したら110〜120ポイント位にはなるから投入金額の1.7倍位にはなるで。
今日の競馬でそんな信頼のおける馬はおるか?

マサ‥競馬ですか?東京のメインの第11Rクィーンカップの5枠9番ヴィルシーナですかね。
現時点の複勝オッズが1.8倍〜なんで狙い目ですかね。
オークスを睨んでの参戦のようなので距離は少し短いかもしれませんが、ヒストリカルに先着した実績があるだけに牝馬相手だと3着までにはきそうです。

テツ‥よっしゃ。お前と俺のどっちが博打センスがあるかの勝負やな。

マサ‥あのぉ〜そんなとこで勝負せんと真っ当な人生で勝負して下さいよ。

テツ‥えっ?何か言うたか?

マサ‥ひょっとして耳が…  怖い怖い。


テツは何とか過去の良いとこどりをして残りの人生を過ごそうとしているよう。そのためには様々な意味で日々が勝負になるとの自覚が必要だろう…



18時50分追記  

テツ‥結局、芦屋の第10Rは3連単1−2−4で790円。東京競馬のメイン第11Rはヴィルシーナが勝ち、複勝は190円。
マサも俺も的中したんで、勝負付けは次回に持ち越しやな。
それにしても芦屋の方は赤岩が深い進入を嫌い、インから1 4 6 / 2 3 5 の並びになり、予想した並びにはならんかったけど、深いインを問題にせん位、三井所のモーターの桁が違ってたな。
ヴィルシーナの方も2番手に付けての競馬で、馬券を買った者にすれば安心して見ることが出来たレースやったな。
俺の予想通りでもマサの予想にのっても勝つことが出来た日やった。こんな日があるのは今までも実感してきたけど勝った時からの次の勝負は落とし穴がある。
一度リセットしてじっくりと勝負レースを検討することが大事やな…


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2012年02月10日

リスクと脳。

脳について色々と研究しようとの思いで動き出してはいるが、正に脳がついていけていないとの皮肉な現象が起きている(汗)。

そのため現時点においては、直感で何らかの推論を示すしかなく、 「優秀な脳を持つ者ほどリスクを意識する」 との仮説を主張したい。

わかり易い例だと、犯罪に染まる者・依存症傾向にある者・忍耐力が欠如する者・継続力に欠ける者・金銭関係にルーズな者 などが良くない方に挙げられる。

「えーい、成るようにしか成らんから思い切ってやろう」 との気持ちは紙一重と言える。
やるだけの事をやった者の台詞か思いつきによる浅はかなだけの台詞かにより結果は大きく違って来るだろう。

脳はいくつかの葉に分かれており、各葉が認知や感覚処理や運動神経など特定機能を担っている。
これらの葉は、何十億もの特殊化した細胞間の直接連結に関与する回路(サーキット)と呼ばれる非常に複雑な単位によって形成されている。
複雑な環境や薬物の乱用や様々な依存により、個体内にあるこれらの特殊化した細胞に影響を及ぼしている側面は否めないだろう。

人間の脳というのは、何万年も続いて来た遺伝情報の記憶伝達による影響が大きいのだが、脳の健全な活動による人間の健全な行動というものが存在すると見て間違いはないだろう。
漠然と考える限り、世の中に正しいことなどあるのか?と思いがちだが、私という個体の主体と言える脳にとっては、常に正しい選択をしようとしているはずだ。

私という個体が脳の正しい選択を無視して暴走した時、食物や衣類や住居や性行為といった生きて行くのに不可欠なニーズを全て無視してしまう局面もあるだろう。

快楽(陶酔感や満足感)の調節を助ける神経伝達物質であるドーパミンの放出が必要以上にあったり、不自然な形で放出されたりした場合には、肉体的・精神的・生活的に悪影響を及ぼすことになる。

パレート効率性(最適性)との用語があるが、最大多数の最大幸福など現実にはない。それと同じで個人として快感が持続し続け幸福感や全能感が際限なく続くのもどこか不自然さを感じる。

脳が判断する最大のリスクは,『死』 になる。
そう考えると、資源の奪い合いへのエントリーが生きるための最大目的であり最適手段になる。
人は当たり前のように仕事をするが、脳にとっては個体維持のための当然の選択である。
何かを得るために何かを費やしているのだから、脳の正しい判断に従い、手段と目的を誤らないように心掛けるべきだろう。

脳は常に正常な判断・選択をしようとしているが、現代社会に次々と登場する人工的・人為的な要素については、脳内で一定の混乱が起きていると推測出来る。
物質の分子が脳に侵入するためには強固な化学防御システムを通過しなければならない。
しかし合成麻薬などの電気的に中立な低分子は容易に脳に入り込むらしい。
脳について興味を持てば持つほどその優秀さや精密さに驚かされる。
こんな優れたものが人間のてっぺんに付いているのは奇跡的だと言える。
どんな大金を積まれたところで、自分の脳の値打ちと比べ物にならない。

とにかくそんな優秀な脳の邪魔をするのでなく最大限に活用するのが個人に与えられた使命と言える。


『リスク』 を常に意識出来るか。それが私が自分の脳に返すメッセージになる。



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2012年02月05日

自由意志(意思)への理解。

前回のエントリーでは、理性の持つ働きに対して強い期待を持とうと考えたわけだが、脳の働きに対してまだまだ理解不足なためさらなる探求が必要だとの想いに至った。

武田一博氏が 『決定論』 の説明をする際に次のような例を出していた。
 ↓
あるドライバーが、事故を起こす前の時点で [事故が起こらないようにゆっくり慎重に運転する自由] を持っていたとしても、事故が起きてしまった時点で、そのような自由意志の行使は止まる。
事故を起こしてしまう迄の経緯は、自由意志と言うより [個人による何らかな行為は、行為者の性格やその時の状況により完全に決定される] と言った方がよい。
勿論、運転するという行為は自由意志によるものであり、運転するかしないかの選択においては当人の自由である。
しかし、ひとたび決断されると 『必然性の渦』 につなぎ止められてしまう。



我々の意識は脳で生じている過程を少し遅れで自覚しているに過ぎない(潜在意識先行)と以前にこのブログで述べたが、『人間の真の主体』 は意志や意識でなく 『脳』 であるとの事実に向き合うことでもある。

自由意志を突き詰めると、『単に望んでいること』 に過ぎない。
現実に何かを成し遂げようとする時には理性的意志が必要になるのだが、人間は意志が弱いため無理だと言えるほどの努力が伴わないといけないことも自覚している。
つまりいくら自由意志を持っても自らが望むことを実現するための行為を生み出すのは非常に困難な作業になる。

個人の行為は、積極的意志とは別に、脳のプログラムとして決定される遺伝的・神経生理学的・電気化学的なものに左右され易く、躾や教育や社会的強制力などによる後天的要素にも引っ張られるもの。
それら自分起源でないものに影響される自らの行為にどこまで自由度がありどこまで道徳的・道義的責任があるのかは今後も問われ続けるだろう。


日本が戦後何故高度成長を成し遂げたのか?
その理由については様々語られるが、私は大学教育レベルの低さにその要因があったように思う。
つまり、自己の頭脳で考えない人間を大量に生み出す方が、大量生産・大量消費時代にはマッチしていたのだろう。
そのような状況では自由意志などというようなものは戦後の日本では育ちにくい概念であったように思える。

マルクスは、世の中というものは対立や矛盾を統一・統合することで成立していると語っている。
男と女・雇い主と労働者などの対立する関係をいかに統一して行くかが常に課題となる。
理性と感情も矛盾を抱えているし、貧富の差を生む資本主義とひとり一票が基本であり平等が理念である民主主義も本来は共存出来ないはず。

私の知り合いに50歳を過ぎてもずっと独身の男性がいる。
それなりに貯蓄もしているのだが女性には縁がなかったようだ。
今は堤防沿いをジョギングするのが日課となっているようだが、「俺の人生はなんだったのか?」 と思う時があるそうだ。
彼は理性的には生きてきたと思うが、愛情を含めた感情を満たすことは出来ていないように見える。
ただ少なくとも自分自身に対する愛情は一定程度は注いでいるので生活が出来ているのだろう。



話を元に戻そう。

ひとたび決断すると必然性の渦につなぎ止められる。
決断に至るまでの過程は、脳主体・脳主導であり、そこに自由意志が関与したとしても実際の行為に大きく影響するのは先天的なものであり、外的要因による後天的なものである。
深層心理によるものであれ行為に及ぶ場合の最終選択は内的に生じる強い衝動から来るものだとは想像出来る。
その時、後天的な内的努力や自発的意識付けにより日々の行為にどれだけの良い影響を与えられるかは、個人差が果てしなく大きいように思える。
望む未来があるとして、実際の現実とのギャップがあまりにも大きく感じている者は一度立ち止まり考えてみる必要があるだろう(当然私自身も)。


望んでいることを実現させるまでの過程は簡単ではない。
それどころか望んでいないことばかりが目の前に現れることだって大いにある。
2回のエントリーを通じて、決定論をキーワードとする過去・現在・未来、そして個人の意志(意思)・選択を考えるための入り口に立ったが、最新物理学の世界でも物質・反物質の関係など次から次へとテーマが出てくるのが現状。


決断し選択する。私達はその行為を生きている間は延々と続けて行くことになる。
真の主体である 『脳』 へどんなアプローチをする必要があるのか?
恐らくだが、人間は背負う物が多ければ多いほど内面の豊かな人間になって行くのだろう。
好きなことを少々我慢する生活位のほうが、望む方向へ向かいそうな気がする…

知り合いに高級スポーツカーに乗って好きなアーティストの音楽を聴くのが最大の楽しみと言う者がいるが、それが彼の望むことならそれはそれでひとつの生き方に思う。










posted by tetsukazu at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月02日

理性というバリア。

このブログでは以前から本能だの理性だのと能書きを言い続けて来た。
人は宿命や運命により導かれているのか?それとも未来は私達の手の中にあるのか?

昔から 『決定論』 については賛否がある。
決定論とは簡単に言えば、あらゆる出来事は、その出来事に先行する出来事のみにより決定するという考え方。

決定論には物理的な意味合いと心の領域に分けることが出来る。
ネット上の記述を参考にすると、一般的には、「ある人がある結果を自分で選んで起こした場合に限りそれは罪なのだ」 と見なされる。
例えば、現代の法律の領域でも 「故意」 「未必の故意」 などの概念が決定論と関連する。

科学の領域においては、近代になると人間を含めた物質を粒子の集まりと捉え、その挙動によって未来の位置は決定されていると考え、結局は人間の意思や思考も含めて絶対的に未来が確定されていると見なしたり主張したりする者が現れるようになった⇒機械論。

けれども20世紀になると、量子力学におけるコペンハーゲン解釈によって、宇宙は原子下のレベル・量子レベルであまねく確率的であるという説が有力となった⇒多世界解釈やそれに類する見方にもつながる(多世界解釈が確率的であるとの意味ではない)

一時期アインシュタインが、「神はサイコロをふらない」 と言って、自らが創始者のひとりであった量子力学の標準解釈を否定し、決定論を擁護しようとしたが、それを証明するための実験は結局、宇宙が確率論的であるとの結果に終わった。
ただし、スティーヴン・ホーキング博士などは決定論的で(も)あるとされる多世界解釈を支持している(かくいう私も多世界解釈に強い興味を持っている)

物事は二対の問題は比較的に対応可能なのだが、三対(三体)以上⇒(一般的に多体問題)の問題は人間の頭脳では解き明かすのが困難である。
ここからは私の個人的見解だが、私らしく例えばギャンブルを例にとると、私とお金の関係・私と公営ギャンブルの関係・私とその周囲の人間との関係・私と時間との関係・私と本能の関係・私と理性の関係 等々が複雑に絡み合う。私以外の要素同士の関係性もあるだろう。

多世界解釈が証明されていない以上、私の選択する未来は一通りしかない。
もし本能のまま未来を選択した場合、法律や慣習や経済の論理に支配される現代社会では正解を出し続けるのは困難である。
エヴァンゲリオンで有名となったA.T.フィールドとの用語は(Absolute teror field)境界面において通常の推進物・波動を一切受け付けないといった周辺とは異なる性質を形成する領域のことを指す。
エヴァンゲリオンでは主に、「心の壁」 のことを称した。

そのことも踏まえて、私が未来に対して誤った選択をしないための策があるとすれば、それは 『理性』 と言われるものの活用しかない。
理性についての説明は一言では言い表せないが、頭で考える事柄全般と規定してみる。

欲望が無制限に開放された状態なのが資本主義社会である。それと同時に個の肉体が発する本能との葛藤もある。それだけでも多体問題(広義な意味で)になるため工夫がいる。
外的要因である社会からの圧力に対しても、肉体発の内的要因に対しても有効な手立ては、『理性』 の最大活用だろう。
具体的には、●今日やれる努力は惜しみなくやること ●今日出来る我慢は最大限すること ●論理的思考について、より具体的に理解を深めること ●目的と行動の整合性を多重に確認すること ●一年後をイメージして実際の行動につなげること などにおいて理性を最大限活用したい。
実際には私の年齢になると、一年後に確実に年齢を重ねているわけでありその現実はある意味ネガティブな要素になる。
それだけにそれを踏まえても一年後にトータルで進歩・進化・成長したと言い切るためにプラス部分の積み重ねが重要となる。

理性というバリアは本能や社会からの誘惑への防御のためには有効だが、その先には能動的・自発的に目標を持ち行動を起こすことを視野に入れるべきだろう。
私のように理性のバリアを強化する必要がある者はまず防御を優先しないとならないが、当然その先に進むことは考えている。
一日単位では、理性のバリアを張れていることを実感することもあるが、一年単位になると自信を持てないし実績は20年位前までさかのぼらなければならない(情けないが…)

世界が確率論に覆われているとの実感はあるが、理性についてはコントロール可能だとの認識を持っても決して間違いとは言い切れないとの感触はある。
私に出来ることは、私自身がコントロール出来る範囲について未来に向けて誤った選択を避けることだ。


逞しく、美しく、しなやかに、そしてしたたかに生きて行きたい。











posted by tetsukazu at 00:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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