2011年09月01日

自由の扱い方。

世界陸上(俗称)も佳境に入ってきたが、棒高跳びの女王と呼ばれるイシンバエワが2大会連続でメダルを逃した光景などをを見るにつけ 『メンタル』 の重要性を知らされる。

このブログの2010年1月27日のエントリー記事にて、マズローが分析した欲求の段階を説明したが、
第一段階である生理的欲求の中に資本主義社会特有の 『フェイク(偽物)』 が混じっている気がしてならない。
マズローは第五段階を 『自己実現の」 欲求としたが、その実現のためには 「文化に対する依存性の低さ」 も必要な要素とした。

しかし文化は時代や国により常に変容するもの。
本来であれば 『食欲』 や 『睡眠欲・休息欲』 が優先されるはずの本能分野に、消費欲や似非快感を誘発する遊戯・遊興・嗜好が溶け込むのが欲望が無秩序・無制限に開放された 『資本主義社会』 である。

例えばの話が、犯罪者となり刑務所に入った受刑囚の食事と寝床が確保されて、犯罪者ではないが家計の収支に問題がある一般人が三食喰えない構造はおかしくないか?

刑務所にないのは勿論 『自由』、 シャバ(俗世間)で起こす殺人などの犯罪が仮に個人の自由意思の下に起きているとすれば、
自由を行使することにより自由のない刑務所に入るとの矛盾が生じてしまう。
人は一体、自由をどう扱いたいのだろうか?

稼いだ金を自由に使ってしまったが故に刑務所の食事環境より劣る生活になったり、年金生活者の食事環境が刑務所のレベルより劣る場合はどう説明がつくのか。

『自由』 の獲得は食欲を制限しても得るべきものなのだろうか?


一昨年出て行った元妻がよく言っていた台詞に 「我が子のためなら死ねる」 がある。
一見、美しく崇高な精神を感じる言葉だが、時によっては子供にとってマイナスになる場合もあるだろう。
子供を捨てて出て行った女性が、自責の念を持った末に命を落としたとしてそれが 「我が子との関係性の中で死ぬ決意をした」 のならばどこか整合性に欠けないか?

自由に人を愛するのも結構だし、人のために死ぬのも自由かもしれない。
ただ、愛する対象はひとりではないはず。2番目も3番目もいる。
例え我が子が1番であっても自分自身が2番で自分の親が3番で自分の兄弟が4番ということだってあるだろう。

愛する人のために誰かを傷つけて刑務所に入った場合、それはどんな自由を行使してどんな自由を犠牲にしたのだろうか。


マズローもここまで自由の範囲が広がることは予測不能だったであろう。
普通は、第一段階である生理的欲求と第二段階である安全の欲求に日々追われて、第三段階である所属と愛の欲求や第四段階の承認(尊重)の欲求まではなかなか辿りつけないもの。

しかし現代社会では 『個人の尊重』 が大きな要素となっていて、個人が持つべき自由(幻想なのだが)を最大限尊重するべきとの意見に異論は挟み難い。

食事に関して言えば、シャバにいる場合は 「メニューを選ぶ自由」 がある。
恋愛に関して言えば、特定空間以外のところでも相手を選ぶ自由がある。
仕事で言えば、選択したくない職業は避けられるし一定期間仕事から距離を置く自由もある。

つまり 「選択の自由」 が個人の持つ最大の自由権である。

ここに自分で稼いだ1000円があるとする。
その1000円を自由に使えと言われたらどうするだろう(自分で稼いだ金だから自由に使えて当たり前だが)。

住む家があることが前提なら、ある程度は自分自身の食事代となるだろう。
しかし自分自身の食事代より優先するほど大切に思えるもの(これも幻想に近い)があればそちらが先になるだろう。

女性の一流アスリートの中には、結婚よりも競技を続けることを優先させる考えの者もいるだろう。
それはそれで自由ではある。
しかしひとつの自由を選択したために他の自由が制限されるなら自由というのも意外に汎用性のないものかもしれない。

ほとんどの者が無自覚だとは思うが、実は 『自由』 とは選択したことに対する結果を受け入れる 『覚悟』 が本当の姿なのではないか。

『覚悟』 なき自由の行使は結果として 『後悔』 につながる気がする。

刑務所に入る覚悟なしに犯罪に手を染めるべきではないし、孤立する覚悟なしに組織から飛び出すべきでもないし、三食共喰わない覚悟なしに好きなことをするべきでない。

当然人を愛する場合にも覚悟が必要だし、本当に相手の幸せを祈るなら自分勝手な結論は出すべきでない。















posted by tetsukazu at 23:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 私的本質論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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